
『新猟奇島』は『もっとも危険なゲーム』を原作とする、低予算映画ではある。特に優れたところもないが人間狩りに魅せられた男バーロウの造形のデカダンさに惹かれるものがある。戦場帰りでなおも動く標的=人間を追い求めるその男に、ふと松田優作版『野獣死すべし』の伊達が重なる。正確には丸山昇一によるそのシナリオの伊達邦彦像だ。
シナリオ版の伊達は現代の吸血鬼として描かれているように読める。それはドラキュラのような生血を吸うという意味ではない。射撃のテクニックで人間という動く標的を撃ち抜くことで生気を得る禁欲的で退廃的なキャラクターと設定されているのだ。伊達にとっては銀行襲撃はあくまでも知的遊戯に過ぎず、奪った金はそのゲームの報酬なのだ。そんな彼のもっとも危険はゲーム=獲物は真田である。真田という野獣を飼い、育て、そして狩る。きわめてデカダンな快楽殺人者ゆえに人を愛することは出来ないのは、彼の宿命なのだ。
だが、そんな浮世離れした彼の思想、計画は愛によって破綻する。銀行襲撃の最中、伊達は不本意ながらも愛しい女を殺す。だが快楽なんてものは得られる筈もない。快楽殺人なんてものは所詮狂人の戯れ言に過ぎないのだ。欲望の達成の失敗は彼の青春の終わりを意味するものであり、人生という長いハンティングゲームに決定的な敗北を与えたように思える。逃走の列車の中で彼は刑事に、自らを童話の主人公に重ねて、己れを語る。ロシアンルーレットに隠されているがこれは自白だ。戦争という何でも許される狩猟場を離れ、虚飾のこの地で彼が犯罪という密猟に手を染めるのは、それだけが何よりも楽しいからに他ならない。シューティングスタンスでのギリギリの緊張と仕留めた後の魂が抜けるほどの開放感。それこそ快楽なのだ。だがそんな素敵な狩りのシーズンは終わった。今や彼は単なる落伍者ざるを得ない。シナリオではラスト真田と相討ち的に終わる。伊達の犯罪シナリオが破綻した為に隙が生まれたのだ。野獣を育て撃つ、それこそ『野獣死すべし』であり、その野獣に殺される己れこそ野獣なのだ。含みのある題名の意味がくっきり浮かび上がってくる。シナリオの朝焼けに写し出された野獣のシルエットのイメージが恐ろしくも美しい。見事なラストシーンだ。
映画版のラストは村川監督いわく、神の、あるいは天使の一撃だったそうだ。少なくとも私には大藪春彦作品に神なき世界の上に成り立っているように思える。大藪にとっての宗教は、圧倒的なスペックを誇る銃器と車なのだ。一見やりたい放題に見える大藪の主人公たちもそれに対しては求道的な殉教者のように思える。いや、もっといえば人は破壊力を持つ銃器を手にしたその時から天使にも悪魔にもなれるのだ。指先ひとつで銃口がとらえた獲物の行く末をいかようにもすることが出来るのだから。