さすらいのふたり。
 SFブラックコメディとあるが、かえって本作の魅力を限定させて表現してしまっている気がする。確かに全編黒い笑いに充ちているのだが、インテリぶった意地の悪い、ひねくれた苦い感じはない。世界が滅んでもなお、性懲りもなく形成される愚者たちの虚飾の世界を嘲け笑いでぶっ飛ばす。その作り手の姿勢は清々しささえ感じる。だから、あのラストに、不快な苦い後味はない。少年と犬の選んだ行動はどす黒いユーモアに包まれ風吹かれてフレームの外へと消えてゆくのだ。この感覚。アメリカンニューシネマである。「イージーライダー』『真夜中のカーボーイ』『タクシードライバー』など得体の知れない傑作と同じように常識にとらわれたジャンル分けを本作は拒否する。アメリカンニューシネマは新たな映画言語によって表現するその創作姿勢そのものなのだ。
 リバイバル時偶然目にしたレビューでは、安っぽいだの、所詮は昔の映画だとか、中には犬がかわいそうなど愚にもつかない感想まである。別に動物愛護を否定しているのではない。木を見て森を見ずというか、問題は、まったく何も伝わっていないことなのだ。何かとても絶望的な感じがする。
 今この映画を観て、ニューシネマを貫くものが反米であったようにも思えてくる。ドン・ジョンソンが味あう地下世界の極端な宗教的道徳による管理社会の地獄より、暴力が支配し弱肉強食でありながらも自由気ままな地上の荒野のどちらがましか言うまでもない。『時計じかけのオレンジ』に通ずる国家という不確かなものへの拭いがたい不信感がニューシネマにはある。しかし、ひとりぼっちの非力ゆえにそれを前に倒すことが出来ないのは自明の理なのだ。だから、ニューシネマの男も女も、さすらい、さまよう。明日をも知れない少年と犬のふたりは屍を乗り越え、さすらいの旅を続けなければならないのだ。