哀しいアイラブユー。
 狂ったロジックを振り回して虚構を造り上げ、それをもって自己の正当化を図る国家もいつかは葬りされる。ジョージ・オーウェルのそんな願いは本の中、巻末付録に託された。鈍感な私は指摘されるまで気付かなかった。だがこの映画『1984』ラストシーンに、巨大な全体主義国家の綻びが確かに見えるのだ。原作通り絶望が再現されながら、監督は結末の解釈を観客に委ねたのだ。

『1984』の世界は生きるに値しない、監獄ようだ。粗末な食事、がらんどうの部屋に放り込まれた主人公は、彼の嫌うネズミと変わりはしない。敵国打倒のアジェンダを立てた国家は一致団結の呼び声のもと個人の自由を極端に制限し、恐怖と不安で支配する。共産主義のカウンターだったナチスがそうなように、国民迎合ポピュリズムが行き着く先が、こうならないとは限らない。 1984年が過ぎ去った現代でも、『1984』の社会は回避できた世界ではないのだ。

 拷問と洗脳に耐えきれず主人公は遂に恋人を裏切る。開放された彼はカフェで一人チェスを指す。思考することはまだできるが、恋人と再会するものの安堵も喜びもない。二人とも死人のようだ。無内容な会話を交わし、女は去る。モニターでは戦果を讃えるアナウンス。目の前には巨大なビッグブラザーの肖像。主人公は「アイラブユー」を呟く。これはビッグブラザーを敬う「教育」をうけた賜物なのか。 真に心から出たのか。あるいは便宜上言わなければならなかったのか。はたまた、洗脳の恐怖のトラウマで無意識に口をついて出たのか。どれであろうと原作のこの言葉は国家の勝利、主人公の敗北なのだが、映画ではもっと他の意味に取れる。つまり、去って行った恋人への言葉にも聞こえるのだ。心のなかで、1ミクロンでも愛は消えず残ったのかも知れない。恋人への裏切りの後悔や懺悔の響きも漂う。だとすれば政府の目論見は失敗したのだ。しかし、残念ながら彼はもう戻ることはない。もう立ち上がりはしない 。出来ない。精神が死んだのだ。そんな男に観客は希望を託すことはない。脱け殻を戒めとするべく見詰めるしかないのだ。