私が愛した『ブレードランナー』。

それは、「TBS 吹替版」となるのだが、さらに言えば、深夜放送だからか、あるいは退色したのか白っぽい為、全体がもっと青みがかったバージョンである。例えばオープニングの説明のクレジットのバックは黒地ではなく、くすんで青い。謂わば蒼白の世界の『ブレードランナー』なのだが、不完全と言っていい、そんなものを何度も見て頭の中に刷り込まれたのだ。本来あるべきリドリー・スコットの意図通り作られた『ブレードランナー』を思い浮かべながら。
その数年後念願のディレクターズカット版の公開時の、あの感じはなんなのだろう。こんなものなのか、いや巨匠の傑作の本来の姿のものがつまらないはずがない、自分の理解力が足りないという思いは、結局は自分の中の『ブレードランナー』そのものの否定に至るのだ。
しかし、評論家野崎六助の、ディレクターズカット版は気にいらないという意見で目の前が開ける思いがした。俺の嫌いなのは、リドリー・スコットバージョンなのであって、『ブレードランナー』ではないのだ。そして「完全版」の字幕を追いながらその味気無さに違和感も覚えたのだ。あの吹き替えのセリフでなければ俺の『ブレードランナー』ではない。
要はデッカートが人間ではないことが、受け入れられないのだ。でも、今やその人間説は否定されて 、俺の『ブレードランナー』はその存在する意味を失ってしまった。ましてや、劣化質版なんて論外だ。つまり、俺の映画は消えて無くなったのだ。
謎、矛盾、ミスなどがあった不完全版こそ魔法があり、本当に見たかった『ブレードランナー』は、単なる修正版でしかない「ファイナルカット』ではない。本作に限らず何かと再編集版を出してくるリドリー・スコットの商魂は観客にとって不誠実きわまると思うのは私だけだろうか。陰では駄作王の汚名がそそがれていることにすら気付きもしないだろう、この巨匠は偉大な芸術家であるが、大事なものが欠けている。プロデューサー側がこの暗黒映画に、青空に向かって飛び立つ鳩という大きな矛盾を差し込んだことがその証なのだ。図らずも修正版の製作でCGによって空が黒く塗り潰され、全く心が動かされなくなったことで周知されたと思うのだ。
しかし、この映画の圧倒的なビジュアルの力は監督の偉業に間違いはない。ここの2020年は訪れなかった未來であるが、現実は老朽化や無人化を迎え、再生不可能な都市のゴミ化は進む一方だ 。レプリカントは永遠に空想の産物に過ぎないが、汚れた都市がつまるところよるべなき者たちの吹き溜まりであるという視線においてハードボイルド『ブレードランナー』は、今なお有効であることを示しているように思う。