『アンフォーギブン』
『アンフォーギブン』とは許されない状態にあることだという。この映画でいえばそれはガンマンだ。新たな時代には彼らの存在はゆるさない。
 長く現役を離れていたモーガン・フリーマンは、突如、不意に思い至ったのだ。人殺しにななりたくないと。年老いた彼は「許されざる者」には、もうなりたくない。
 現役保安官のジーン・ハックマンは暴力の力を信じて疑わない。その存在もまた「許されない」。
  主人公イーストウッドは、いわば、あの「名無しの男」のなれの果てであり、クライマックスあのアクシデントの瞬間、それが覚醒されたのだ。死の天使が舞い降りた。イーストウッド映画の西部劇どころか現代劇で常に現れた、あの天の裁きの代行者は、復讐の行うために地獄に降り立ったのだ。
  裁きの終えた男を叩きつける雨。黒澤明『羅生門』の如く振りすさぶ大雨のなか善悪はシームレスに混ざり合う。街を去る際のイーストウッドの警告は、ある者にとっては恐怖の脅しでも、暴力の被害者の娼婦には暴虐を撃ち破った平和をもたらす福音なのだ。しかし、彼が善悪どちらであろうと保安官殺しの『許されざる者』であることにはかわりない。だからそれに続く、「許されざる者」であるはずの彼のその後を告げる語りに観る者は虚をつかれるのだ。結局、正義のヒーローとして許せれたのではないかと。お金持ちに成りましたという安直なハッピーエンドと批判的な意見もある。
 そう単純ではないだろう。
 邦題『許されざる者』の持つ響きは重い。絶対に許せれない者なのだ。原題『アンフォーギブン』にも容赦無しの意味もあり、厳しい神の目線がある。イーストウッドの主人公は許されないまま死んだのだ。
  だが、こうも思う。アンフォーギブンは、真面目に生きた結果、いつの間にかアンが取り外され、天寿を全うしたようにも思えるのだ。何故なら、厳しい冷たさよりもイーストウッドの奏でる音楽は優しさ温かみを感じるからだ。
以上、長年思っていたことを書いてみました。