焦り。そして苛立ち。
 リメイクされるそうなのだが、意味あるのだろうか。ミッキー・スピレインが言ったように、彼ら、製作側はタイトルが欲しいのだとしか思えない。そもそも、『竜二』を観るのは、金子正次を見るに他ならない。彼はここにしか居ないのだから。

 『竜二』はヤクザ映画だが、青春映画としての青くさい鮮烈さこそ印象的である。竜二の焦り、苛立ちはそのまま金子正次のもの、本物なのであり、男なら誰でもに向き合う問題なのだ。金子正次の全身から発せられたそれは観るものの喉元にドスのように突き立てられる。お前はどうなんだ、と。

  自己責任、甘えが糾弾される世の中で、『竜二』はどう観られるのだろうか。堅気になったものの、早々ズル休みし、安月給という厳しい現実に突き当たる竜二。アウトローの世界の哀しさを横目で見ながらも、心の片隅でなおもひかり輝き続けている過去の栄光。結局は家族から離れる竜二は非難されるべきなのか。私としては、竜二はまだ若いのだと弁護したい。若さゆえ離れた家族が愛おしく輝くあこがれだったのだ。世間知らずゆえ紙くずのように扱っていた金は堅気の今では手に入れるのは容易ではなくなってしまった。社会人として当たり前の現実を前にひとり青年の決断が迫られる。竜二は平凡な日常と折り合いがつけられなかった。それだけだ。ただ、挫折したには違いない。だから、竜二の中でララバイはずっと響き続けるのだ。