大いなる沈黙。

本作のあまりにも無慈悲なラストだけ取り上げ、バッドエンドこそリアリズムだと褒めるレビューを見た。物語の終わりは、それまで描かれた人間たちの葛藤の終着点である。作者はそれにふさわしい1つの結末を捻り出す。しかしその正否は作者側ではなくおそらく第三者=観客が引き出すことができるのだ。リアリズムというのは現実を批評し批判する視点がなければならない。結末が幸福ではないから現実的なのではない筈だ。『殺しが静かにやって来る』の物語は主人公サイレンスの沈黙によって終わらなければならない。そして観客は彼の命を賭けた抵抗がまったく無意味であったことを、無抵抗の人々の虐殺によって思い知らされるのだ。無慈悲な暴力によって砕け散った祈り。それを読み取らなければならない。
遠い昔のリバイバル上映時の鑑賞の記憶を掘り起こしてみれば、やはりつらいエンディングの印象が強いのだが決して苦い後味だけではなかったと思う 。泣きはしないが何か心を動かされるものがあったのだろう。それは音楽の効果だったと今回見直してみて確信した。エンリオ・モリコーネの美しく雄大なメロディーは無惨に散った死者の魂を慈悲深く包み込む。全てを覆い隠す雪化粧は話すことの出来ないバウンティハンター・キラー、ジャン ・ルイ・トランティニャンの儚い復讐代行者の心象風景 そのものだ。『殺しが静かにやって来る』の雪は一般的なイメージの純白の美しさのではなく、どこまでも虚しく厳しい。凍りついたようなサイレンスの孤独の心を溶かす黒人女性ポーリーン。ひとときの幸福。別エンディングでは笑顔の二人が撮されている。本編の結末にはそぐわないのだが、それだけで存在価値はあると思う。
『続・荒野の用心棒』のラストの決闘を絶賛した中島らもは、本作の何の手立ても無く死ぬ主人公に批判的で、個人的にその意見に引きずられていた時期があったのだが、今後作られることが絶対できない大傑作だと今なら言える。速射ちを封じられ死地へ向かったサイレンスは、反撃できずに賞金稼ぎロコ=クラウス・キンスキーに頭を撃ち抜かれる。その姿に制作側が意図したキング牧師を重ねるのは困難ではある。しかし殉教者という意味では当てはまる。サイレンスは自らの命を人質の為に差し出したのだ。『殺しが静かにやってくる』が真に衝撃的なのは主人公が死ぬことでも、極悪人が生き残るからでもはない。主人公の死が簡単に 踏みにじられるところにある。賞金稼ぎ側は捕らえた賞金首の野盗を逃がす筈はなく、皆殺しを行う。徹底的に無慈悲な世界である。キンスキーはほぼ戦闘力のないサイレンスを無感動に撃ち殺す。 そこに憎しみ、恨みといった感情の揺らめきは一切ない。去り際にサイレンスにもたれて息絶えたポーレーンの指からモーゼルをもぎ取るキンスキー。宿敵の記憶としての戦利品として手に取ったのだろうか。しかし彼には、無抵抗な人間を殺したところ悔恨も改心もないのだ。これは単に無自覚な窃盗である。薄汚いこそ泥である。舞い散る雪のなかマカロニウエスタンが描き続けたバウンティハンターの神話は全否定された。観た者を虚無の余韻に引きずり込むのは、暴力を神話化させ作り上げた偽りの正義の終焉を見てしまったからかもしれない。