祈りの銃弾。
『仁義なき戦い』のシナリオを読むとアドリブなんてほとんどなかったことに驚く。ところ狭しと暴れる役者たちを活写した映像には作り物とは思えない生々しいエネルギーが充満しているからだ。その熱量をもってハイテンションで語り、現実をデフォルメ化させる。小さな地方都市に過ぎない広島はひとつの小宇宙となったのだ。
 『仁義なき戦い  広島死闘篇』のシナリオ版の山中は映画よりもっと無垢であり、無学で凶暴な印象がある。ポスターにあるように殺人マシンと化す彼のストイシズムは狂気の色さえ感じるほどだ。映画版の山中は殺人マシンにはなりきれない。ライバルである若い獣大友と二人を分けるものは欲望である。禁欲的な山中と果てしない欲望を抱えた大友の対立によって熱いドラマが展開される。しかし今を生きる観客は大友に心引かれるかもしれない。分かりやすい。敗戦後も軍国少年を引き摺る山中はわからないだろう。だから深作は自分側引き付けた。かといって大友を単なる仇役とさせずバージョンアップさせる。大友勝利=千葉真一を革ジャケット、アロハシャツ、サングラス、黒帽子で見事にデコレーションさせた。この格好良さはなんだろう。初見の中学生の時それを言い表すことが出来なかったが、今なら的確に指し示す言葉を持っている。これは「傾き者」である。
   数年前シナリオを読んだ時は、この映画をハイボルテージに仕上げた演出力に驚嘆したが、今回読み返してみると映画版では抜け落ちた箇所が気になった。工員としての山中の日常である。充たされない日々、騒ぐ同僚たちに背を向ける山中の姿はいつの時代にも存在する青春の孤独の影である。こういうところさえ押さえていれば元軍国少年であっても観るものの気持ちはとらえられる筈である。だからと言って深作が本来のストーリーを歪めたとも思わない。ブロウアップされざらついた映像で展開されるクライマックスのシークエンスの臨場感の凄まじさはシナリオ以上である。ただ、映画版とシナリオでは自殺の仕方が異なる。不意に山中のモデルとなった山上に思いをはせてみる。山上はおそらく敗戦によって自分の中の何かが死んでしまった 男であり、そんな心の隙間が彼をキリングマシーンに変える。一人の女を愛しながらも無意識に死地を捜している彼は遂に追い込まれた風呂場に隠れながら今ここで死ぬこと決める。それは愛や憎しみやらあらゆるしがらみを断ち切った心情であり、己のみが己の責任を取るという乾ききった決意である。そう思うのだ。頭の何処を撃ち抜こうと問題ではない。深作や笠原が、たったひとつ残された銃弾に山中=山上への鎮魂の祈りをこめたことには違いないはずだ。