
ヤクザと暴力団は、同じ意味である。しかし、股旅映画『遊侠一匹』時代物任侠映画『総長賭博』はヤクザ映画だが、当然暴力団映画ではない。暴力団=現代的暴力組織となるのだが『仁義なき戦い』以後の東映山口組映画を暴力団映画と呼ぶのはしっくりこない。おそらく組織の在り方が古すぎて、暴力団員が形骸化されて描かれるため何か現実味が感じられないのだ。だから『極妻』はヤクザ映画なのだ。もはや映画のヤクザはディフォルメされ記号化した職業的意味でしかない。
『仁義なき戦い』第一部は帰還兵たちが流れ着いたアウトロー社会の生態が卑しく生々しく描かれるが、どこか可笑しい。深作、笠原コンビには暴力団組織そのものを笑い飛ばす。第二作『広島死闘篇』の山中や大友の輝きは生命の息吹であり、ヤクザの掟は彼らを縛りつけるものなのだ。大友は振りほどき、山中は裏切られる。その違いしかない。この二作はヤクザ映画であっても、少なくとも暴力団員映画ではない。
『代理戦争』は極めてすぐれた暴力団映画だと思う。その後編が『頂上作戦』である。この二作の中、乱暴に言ってしまえば、仁義ある戦いを求める菅原文太のみヤクザであり、残りは皆現代的暴力団員である。これは小林旭も例外ではないのだ。作中、主人公文太が逮捕され一時退場すると、物語的には旭に役目が交替するはずなのだがそうはならない。旭が守るものは組織であり、彼はあくまで暴力団の大物幹部に過ぎないのだ。主役不在で抗争が繰り返されるのだが、実働部隊である若者側が『頂上作戦』においては感情移入の対象ではない。夏八木勲や黒沢年男、小林稔侍、志賀勝の凶暴さは、もはや暴力団員と言うより暴力の使徒である。そして小倉一郎に至ってはヤクザに到底見えない。だが、彼はカラーテレビ欲しさに恩人を殺す。貧しさは同情するが、共感はできない。まさに腐れ外道である。ラストの刑務所での名シーンにたどり着くまでの『頂上作戦』の後半は、暴力団員の抗争がただ羅列するだけだと言える。外道=ハイエナの喧嘩に熱狂も哀しみもない。だがそれが暴力団の現実なのであり、ここがおそらく暴力団映画の頂点だ。文太と旭が終焉を語るように、暴力団映画もヤクザ映画もある意味では『頂上作戦』で終わってしまったのかもしれない 。