デザインが素晴らしい。(但し長崎原爆)

聖典四部作の「その後」を描いた最終作なのだが、笠原和夫抜きの本作の存在は蛇足気味にとらえられている。だが、実質主役の北大路欣也に『広島死闘篇』の山中を重ね合わせ、いっそ山中が転生したと思い込んで鑑賞すると楽しめる。『広島死闘篇』自体が、実質主役は山中であり、任侠映画的な側面を持ち、内容的にも番外編であるのだ。第五作目『完結編』の高田宏治の脚本は登場人物のパーソナリティー がきっちり確立されて、見事なヤクザ映画ではあるが、『仁義なき戦い』的ではないかもしれない。『仁義なき戦い』四部作の広能は主人公であっても抗争の渦の中心にはいない印象だ。原作の美能氏の手記では勿論ど真ん中の視点で描かれている。映画版『仁義なき戦い』ではヤクザは大幹部と言っても、混乱渦巻くの時代の流れにのまれるちっぽけな存在に過ぎないのだ。深作欣二・笠原和夫の視点は戦後史なのである。『完結編』ではかつての幹部達は整理化されていく日本にとって葬られるべき時代遅れの邪魔な置物でしかない。高田宏治は本作の脚本を、シリーズ中最も乾いていると、自負する。その通りだと思う。ポスターのデザイン通りシリーズ中最も硬質な視点で描かれる。ゆえに『完結編』は人間喜劇の熱気は希薄で、退場劇が冷徹に語られる印象があるのだ。四部作では若者たちの無念さが強烈なのだが、『完結編』では桜木健一が空回りする姿が突き放して描かれる。『代理戦争』の渡瀬恒彦のような一本木なチャーミングさも『頂上作戦』の夏八木勲や黒沢年男の凶暴さもない。色悪の長谷川明夫や色白の小倉一郎の鮮烈さもない。意気がっていながらも弱虫な桜木健一は、小便を漏らし、水中銃で自分の足を誤射し、最終的に惨めな死に様をさらす。島田紳助はこのチンピラの死を見て、ヤクザになるあこがれをやめたそうだ。あんな風になりたくないとみんな思うだろう。完全にではないにしろヒロイズムをドブに捨てたヤクザ映画の真価はそこにあるのかもしれない