
デビット・グーディスの原作は『ブラックフライデー』といい、未読だが祝日後の在庫一掃大安売りという意味を皮肉に使ったのだろう。セバスチャン・ジャプリゾのシナリオは、『ウサギは野を駆ける』というタイトルで、映画も同じだと思う。ヨーロッパにおいてウサギは食料でもあり狩猟の対象でもある。二つの題名を思い浮かべると 死を前に大騒ぎで逃げ回るイメージが広がる。アメリカ公開タイトルは『そして、私は死にたい』。『狼は天使の匂い』という邦題は、個人的には意味不明に近いと思う。本編の挿話部分の子供を天使ととらえるこうなるのだろうか。天使の匂いという表現はどうなのだろう。天使=死の使いならわからないでもないが。このギャング映画は時にコミカルでナンセンスな展開をする不思議な作品なのだがアメリカ公開タイトルのようにどこか死が漂う 。フランシス・レイの哀しく美しい旋律は滅びる者の挽歌である。狼は死の匂い、だろうか。
ルネ・クレマン監督が同性愛者だからと『太陽がいっぱい』をその観点で観るとかえって物語の焦点はずれる。原作と違って、アラン・ドロンのリプレーにとって、それは無自覚な感覚であり、あくまで映画のスパイスである。彼は誰も愛さない。あのマルジュでさえ。ともかく、クレマンにとってはその感覚は秘められた思いである、と勝手に思う。悪童モーリス・ロネ、ギャングのボスのロバート・ライアン。男が惹かれる気持ちは分からなくもないのだ。
いじめっ子から逃げてきた転校生ジャン・ルイ・トランティニャンはひょんなことから年上の不良少年ロバート・ライアンらの庇護に入る。人里離れた彼らのアジトは、謂わば大人の知らない秘密基地だ。さらにそこの仲間を言い換えれば、勉強はできないが気のいい力持ち、面倒見のいい姉御肌のお姉さん、おぼこの美少女となる。少年の時そんな存在を夢見たことがあるはずだ。人形がキーアイテムに使われるようにアクションシーンは漫画のように空想的だ。彼らアウトローがタキシードに身をつつみ、マシンガンを手にする姿に心踊らぬ男はいまい。男はこういうことがしたい生き物なのだ。 そして幼い時から男は義に殉ずるのが美徳なのだ。少年時代において友情は何よりも優先される。よってトランティニャンは美少女と別れ、ライアンの元に戻る。二人とも負傷していて、いずれは死ぬだろう。二人だけで射撃に興ずる姿には、子供が何時までもベーゴマや面子に、遊びに熱中する姿が重なる。ラスト、トランティニャンとライアンの死の別れが暗示されるように、挿話の少年たちはさよならを交わす。夢の終わり。その儚い輝きが眩しい。