カレーライスを食うたび思い出す。
  刑事とヤクザの禁断の友情と言えようか。菅原文太扮する久能刑事は松方弘樹扮するヤクザ広谷に惚れ込み手を組む。久能から見れば広谷は現代社会に生き残った侠 客のなのだ。二人の絆はどこか三国志の義兄弟的である。暴力団に深入りする久能は悪徳警官ではあるが裏社会の状況把握は治安維持に直結する面も不定できない。昇進を諦め家庭にも問題を抱えている彼は広谷に明日を託しているのだ。屈折した彫りの深い人物造形である。
 本作は『仁義なき戦い』の流れを汲む実録路線の一作だが、個人的にはもっと硬質なハードボイルドな視点で描かれるべきではなかったのかと思う。戦争の要因はコンビナート建設にまつわる政財官の癒着構造であり、その力は一個人など簡単に捻り潰せる程巨大で得体の知れないものなのだ。いってしまえば久能も広谷も最初から勝ち目はなかったのだ。だから久能は闇に葬られる。その為には誘き寄せる事故現場を偽装しなくてはならない。地方のヤクザである広谷側の残党ならわざわざそんなことにする必要がない。映画版のラストはミステリアスで不気味ではあるが何故か超自然的な印象が残る。暴力団潰しの急先鋒だった梅宮辰夫が平然と天下りする姿に唖然し、ラジオ体操するブラックユーモアに至って脱力感のあまりに現実が虚しく遠のいていたからかもしれない。皮肉な笑いが隠してしまった気がしないでもない。この結末は本来震え上がるほど非情の切れ味が必要だと思う。   
『県警対組織暴力』はヤクザと警察の間に挟まれた男の苦闘の物語である。姉妹篇『やくざの墓場 くちなしの花』では、友のため、愛のために刑事が牙を剥いて立ち上がる。図式的とはいえその分人物造形はストレートであり物語の爆発力は時に本作を凌駕する。おそらくそれは渡哲也扮する主人公の私的怨念、恨みが爆発したからだろう。『県警対組織暴力』の久能はどうか。作中彼だけが戦争を引き摺っている。戦後日本にわだかまりを抱えて生きている。カレーライスの件のあのセリフはそういう人間でからでないと発せられないはずだ。同時に自ら時代遅れの存在を露呈したともいえる。彼の怒りは突き刺さるが、どこか虚しさが残る。もはや、言ったところでどうにもならないのだ。彼は同僚に痛いところをつかれ逆上するが、言葉の代わりに思わず銃を抜く。このデカ部屋で彼は負けを悟ったと思う。クライマックス、久能が広谷に撃ち込むとどめの銃弾は二人の戦いの敗北宣言とも言えるのだ。