(前回の続き)
『今は私が説明して皆さんが理解を通して、そういうものか~と考えてる範囲だから、自分で立証出来る時間がなかったら、無理じゃない、だから修行する。
修行するのに何もすることがない。ちゃんと見えてる、聞こえてるものができている。
しかし皆さんには見えている聞こえているものに対して心の中に留まっている現象がある。それは考え方の中にこびりついているってことです。
しかし実物に触れてみるとこびりついた活動はしていない。
時というものがそうで、いつでも今、これからなんてない。
もののありよう、いつでも今、今やっている様子、だけど頭は描く力があるから、過去も未来もあるけど、時はいつも今しかない。
その今から学ぶこと。
昔のものを相手に生きてることはない。必ず今、今の動きだけ、この実物は!そこに参禅をする用がある。
考え方を取り扱わないということはそういうことでこの生身で活動している様子、それに触れないとどうなっているかがはっきりしない。けど考え方はなかなか納得しない、しかし修行は考え方でするものではない。

(体験談)頭でチンプンカンプンわからずについてきた、そして今では坐わることが大切になってきた。頭ではわからなくても坐わることで感じることがあります。

(体験談)正法眼蔵など仏教の本なんて難しくわからないし、読んだこともない。しかしこうして話を聞くだけでうなづけるものがいっぱいある。

どのようにしたら、考え方の生活から抜けられるか?~ということを考えると難しいけど、自分の生活している事実をとりあげて説明するとちゃんとそのようになっている。

皆さんが坐わっているとき、どういうふうに過ごしているか?それは坐わる以前のこと、だからどうあったらいいかを話している、それを実践して、自分の体で試してみる、味わってもらう、そうすると時間が短かったとか気持ち良かったという坐禅とは違う体験をする。坐禅は人の根源、本質に触れる力を持っている。

坐わっているときと日常の繋がりは?
繋がらないと思うのは実物を見ていない。
今のあり様と別なものがあるのではない。
人間のほとんどが考え方でしか物を見ない。
仏道は実物、坐禅は自分自身の真相。
自分自身の中で受け取り方の間違いを起こしていたら修正をしておいて下さい。
(終わり)

形を整えても中身が伴わなければ坐禅にはなりません。

仏道とは自分とは何か?~を解決する道。

無我とは元々我が存在しないこと。坐禅はあると錯覚している自分を忘れる修行。

肉体の働きで勝手に見えて聞こえているだけ!

坐禅中はこうあるべき!~は捨てる。

雑念が出てもそのまま。



老師のお話、ストレッチ、20分の坐禅二回、経行(歩く坐禅)
質疑応答