ふす 『セクシー田中さん』を読んでいて、男の理想の女性像として。「朝倉南」と「音無響子」という名前が飛び出し、昭和世代として歓喜した。令和のコミックでこんな素敵な例えをしてくれた作者に敬意を表し、改めてめい福を祈るものである。(日テレのク○ヤロウ)
 南ちゃんと響子さんは年齢は違うが、確かに昭和末期、理想像の双璧だった。私は響子さん派で、原作をバイブルにしていた時期もあった。

 最終話、五代君が、響子さんの亡夫、惣一郎さんの墓前に1人参り、「あなたは響子さんの一部」「あなたも引っくるめて響子をもらいます」(正確かは分からない、ご容赦)。この令和の世、みんなに聞いて欲しい、深い寛容の心。優柔不断な男こそが究極の愛を持っていた。コミック史に残る名セリフ、ラブコメの金字塔だろう。

 連載終了は1987年なので、私の大学在学中。年齢的には、五代君や響子さんを追いかける感じである。冴えない、今でいう陰キャ、態度をはっきりできない優柔不断は、共感しまくりで熟読した。

 バブルが迫る時代、五代君は、こずえちゃんという彼女がいても、キスすらしない奥手。ストーリー上、長期に渡り童貞である。自分を投影したのは確かだが、私は学生時代、響子さんとも、こずえちゃんとも、出会うことはなかった。五代君は、教育実習でも八神という女子に付き纏われたり、実は私と違いモテるのだ。

 それはともかく、五代君童貞卒業譚は、Wikipediaにも載っているエピソードがある。

 五代君は就職浪人。無事社会人になった友人坂本に奢ってもらい、勢いでソープまで付き合い、朝帰りする。一コマで終わるエピソードなのだが、高橋留美子先生(叙勲おめでとうございます)の構想では、その少し前の北海道一人旅のゆきずりの旅の道連れ女子と致す予定だった。ところが、編集担当他(男)の猛反対にあい、この旅のロマンスはキスで終わる。

 男にとって、そんなに大きな違いがあるのか、と高橋先生はインタビューで述懐されていた。

 これは、私がずっと書いているように、普通に恋愛して、愛し合った結果と、ソープで童貞が素人童貞まで進化するだけ、では、上昇するステージの高さが違う、と感じるからではないかと思う。

 このエピソード時、五代君は24歳ということになる。感覚的に早くも遅くもなく。しかし、これが旅行先のワンナイトだったら、五代君のキャラ変になってしう、と担当は考えたのだろう。

 また作者としても、この問題を、サラッと片付けておきたかったのではないか。年齢が上がり過ぎると(私のように)拗らせて、素直なキャラの維持が不自然になる。この辺りが適齢期と見たか。だとすればやはり自分は遅かったのだな、とも思う。

 連載スタート時、響子さんは21歳、亡夫に操を立てて、最後に五代君と結ばれるまで性的接触なし。焦らし焦らされ、正式に付き合う訳でもなく、愛が続いていく。SEXなくても深まる愛。私は影響されすぎたかも知れないが、20歳前後でこの作品と現在進行形で過ごせたのは幸せだと思う。

 出会って、好きになって、紆余曲折あり結ばれる。ラブコメなどの黄金律だな、と思う。でもリアルには無理かなと。何歳くらいからか、目的を持って「出会わなければならなくなる」そして「出会うための努力」をしなければならなくなる。それで結果が出れば、、、だが。

 お互い意識しながら何年も続く、後半、響子さんの悪い意味の女らしさも炸裂する(要はヤキモチ焼きで面倒くさい)がそれも魅力である。

 終盤、五代君のプロポーズ「俺、響子さんの作った味噌汁飲みたい」に対し、響子さんは、本当に味噌汁を作ってしまう。五代君は「しまった、響子さんは鈍いんだ」と改めて気づくくだりは傑作である。

 しかしリアルの世界はなかなかつらい。振られれば「友達でいましょう」と言われ友達でいられなくなる。相手は直に彼氏が出来、その姿を目撃するのも辛いのに、相手が変わったりする。人生終盤の今なら、そんな女は、俺に合わない、と判断できるが若いころたるや、、、

 憧れの彼女はベッドであいつと、片や自分は不毛の砂漠を行く。性描写の少ない、めぞん一刻で描かれる、想いの形は、弱者のユートピアだったのか。

 五代君、ソープで24歳で卒業。何となく自分の基準になった気がする。