親は子供の育つ場所は選べる。だが、子供がどう育つのかについては全く関与できない。

 

 

このブログの人は、自分も読んだジュディス・リッチ・ハリスの

「子育ての大誤解」

という本をもとに考察しているけれど。

進化心理学や発達心理学の側面からみれば、子供の育ちに対する親の影響はかなり小さいことになっている。

これも特別、「虐待」などしなかった場合だけれども。

自分は幼稚園の時と、小学生の時に、2度だけ過激な虐待は受けたことあるけど。

それ以降はなかったと思っていたけど。

最初の頃は、「勉強しろ!」は、適切な・・・正しい、ご指導ご鞭撻だと思っていた。

ただ、後々、そうでもなかったのではないかと思われたのは・・・・・・

中学時代の学業成績は240人中10位くらいになっても、

父親にはまだまだ上を目指して競争させられたこともあげられるし。

高校時代なんかは、私大でさえ学校で自分ひとりしか〇学部に現役合格した人はいなかったのに

それができなければ、「そんなどうしようもない落ちこぼれは高卒で就職しろ!」と父親に言われていた。

「国立大学にしろ!」なんて上目線で指令されてたよねぇ。

本人がもともと持ってる資質や能力とかを完全無視してそんなことを言っていた。

高校時代なんかも、化学の模擬試験の成績なんか学年平均が10数点のところ

自分だけ90点以上取って、校内偏差値78とかだったけど。

父親の無理な要求に応えるために、学校をさぼって図書館に直行して独りで進研ゼミをやっていた。

怒るし、否定してばっかりだし、全く助けないし、いろいろ上から指示する人だった

受験勉強なんかも一年で偏差値15とか上げなきゃいけなかったし

自殺一歩手前、燃え尽き一歩手前にコントロールして、

虚無感と絶望感の淵でギリギリの生存競争したけど・・・・・・・・・・・

大学時代は、9割の人は合格する国家試験の模擬試験の成績で一握りの優秀者になることを

ムダに求められて

学年350人中130位を言われたとおりに、1年間で2位にしたけど

これって・・・・

いわゆる「教育虐待だったのではないか?」と気が付いたのは30代半ばくらいだったろうか。

あそこまで過激に努力して生存競争に勝利しないと

「出来損ないの落ちこぼれ」であって・・・「それに勝利すれば正しい」・・・・・・

というのは父親の指導だったけれども

結局それは、就職でうまく行かなかった姉に見下した態度を取ったり、

他人に誇示したりマウントする結果にもつながったけど

そういう自分のキャラというのは

「指導の結果だったのか」「生まれ持った特性だったのか」「意識的な行動による自己責任なのか」

はっきりとは今でもしていないのだけれども

最近は、まぁ、生存条件が以前よりも緩くなって、必死に競争しなくてもよくなったので、

あまりマウントすることもなくなったのだけど

あの経験はなんだったのか・・・・・今でもよく分からない

生活できれば人間の幸福感なんて殆ど変わらないのに、

そこまで無理してまで人より優越することを求められた意味が今では全く分からない・・・・・・

うーーーーーーーーーーーーーん

過激な努力やど根性や競争や成長を求められて、

それをそのまま正しいご指導・ご鞭撻だと捉えて無理に頑張って失敗したのは・・・・・・・・

入社した頃の最初の長の指導下でも、やっぱりロクな結果にならなかった・・・・・・・

「鉄は熱いうちに打て!」なんてことで叩き込まれていたから

その長がいなくなった後も、しばらくその信念でやっていたけど

対人関係がめちゃくちゃに荒れただけだった・・・・・・・・・・・・・・・

実際はどういう立ち回りが組織で平和に泳げるかというと

仕事の能力面で足並みを揃え均質性を確保しさえすれば、

性格とか態度とかは殆ど素のまま過ごしていても、殆ど問題視されることはないけれども

仕事の能力の面で突出しようと努力し続けて、性格とか態度では中庸中道を心がけても

やっぱり「こいつは仕事はできるけれども、人格や人間性に問題がある。」とされるのである

もともと高い能力が求められている社会でもないし

「和を形成するには、過激に急成長するよりも、分に甘んじること」のほうがよっぽどいいようである。

そうすれば、自分が仕事できなくても、ある程度、助けてくれる人はいるけど

能力で突出しようと張り切りすぎると、めっちゃ潰しに遭う

会社組織が「足切り減点法を考課方式に採用する年功序列制」であるからである。

がんばっても加点がない、ということになると

強烈に若年者が競争して成長してくると、

相対評価で暮らすある程度の人は、自分まで頑張ることが苦痛で、若手を潰してしまう

そういう力学がやっぱり組織に発生するようになる

だから、受験戦争とかで、必要以上の無理な努力をしてうまく行った体験とかあると

社会では通用しない能力主義が初めから体にしみこんでいる場合がある

父親は本当に意味の分からない存在だったよなぁ

病気すれば「仕事辞めて実家に戻ってこい」なんて言う割には

実家療養しているときに、「出ていけ!」なんて言って勘当にされたこともあった

あれは、実家療養中にストレス管理ということで魚釣りに行くということを母親に相談して決めたときだけど

釣りに行った話を聞いた父親が激怒して「筋トレしろ!筋トレ!」なんて言って

俺も病気の治療に効果のない無駄な努力なんてしたくないから

「この病気に筋トレが有効だとするエビデンスをみせてくれ」と言っただけで

父親がブチ切れて、掴み合いになって、「出ていけ!」なんてことになったんだけど

なんなんだろうね・・・戻ってこいといったり、出ていけといったり。

あと、父親は自分が子どもに〇〇以外通用しない!食っていけない!なんて言って

強烈な教育虐待に晒したくせに

子どもが実際に資格を取って就職しただけで

「俺なんかより全然優秀すぎる」ということで坊さんの前で妬まれて不満言われただけだったし

本当に意味不明だったよね

それなのに「親御さんにきちんと感謝してますか?」とか意味の分からないことを言う世間

いや、感謝なんて本人が感じてなければ、それだけの話しでしかないと思うけど・・・・・・・・・・

だからそれがなんなの?って思うけど・・・・・・・・・・・・・・・・

感性や体験なんて人によってみんなそれぞれ違うし

誰に対してどう感じるかなんて人それぞれなんじゃないの・・・としか思えないけど

小学時代は、通知表がオール3で、父親に軽蔑されたし

本を読まないということで軽蔑されたこともあったけど

実家に置いてあった父親の本なんて、ゴルフの雑誌と、謎の時代小説くらいだった

もともと知的刺激が入力されるような家庭環境でもなんでもなかったわけだからねぇ

当時はネット書店もなかったから、書店も、田舎の小さな書店くらいしかなくて

まぁ・・・情報源もなかったからねぇ