物事の道理からして

過激な悪戦苦闘努力によって生存競争をして勝ち抜いて立派な肩書や経歴を得たような人が

そんなに弱者に対して優しい人間性を保っていることができるのかというと

どうなんだろう・・・・・・・・・・・・・・・

いや、すごい必死に努力して「持てる側になった」ということだと

それで自己肯定感を得るには、やっぱり持てない側よりも頑張った証拠だ、なんてことになるよね

どうしても

「お前らも必死に自助努力しろ」・・・的な流れにしかならないのではないだろうか

でも実際は、人間の能力は、運や偶然で形成される要素が非常に大きかったようだけど

まだそこは一般的に広くは認知されていないようである

遺伝子や環境などが織りなす運や偶然であって、競争条件を同じにして努力しても、公正であるとはいえないということになると

能力主義社会における過度の賃金格差や待遇格差の正当性などにも恐らく疑問符がつくし

運や偶然で決まるものであれば「強い者は弱い者に手を差し伸べるべき一定の責任」は生じることにもなりえるから

立場の差は努力の差だということで、勝ったから偉いとかで、

ただマウントしてればいい時代ではなくなってきているのかもしれない

本当にそうなりえるだろうか・・・・・・・・・・・・・・・

まぁ、社会秩序が維持できる程度の最低限の保障・・・・・・これは絶対に大事だとは自分も思うけど

それすら保障するのも、社会のお荷物だという考え方をする人もいる

まぁ、そういう人は、自分がずっと強者の側の前提で考えているのかもしれないというのもあるし

生存権すら保障できなくなったら、

体制や社会秩序が崩壊するということまで考えてないのかもしれないし

まぁ、ホロコーストみたいなのが起きて金持ちが殺されて金品を奪われるみたいなことがあるのも

わかっていて言っているのかどうか

大企業のエリートサラリーマンでも突然病気したり交通事故に遭ったりして

作業所などの福祉を利用したり、生活保護を受けることになる可能性がゼロなのかというと

そんなこと分からないわけだけど

うーーーーーーーーーーーーーん

持病があって作業所でしか働けない人に、健常人の自分らはあなたの10倍働いてるから、、、、、

ということでマウント取る意味は、最近の自分には、やっぱりよく理解できなくなっているけど

若い頃、自分が強引な生存競争ばかり強いられていた時期は、

まぁ、そういうのにも共鳴してたかもしれないけど

うーーーーーーーーーーーーーん

みんな立場や状況によって、いろいろ認識には違いがあるのかもしれないけど

やっぱりその人の能力や実績というよりも、

努力しすぎて強い苦痛を受けている人とかは・・・あまり落ち着いた考えは持てないのかもしれない

頑張りすぎるって、ほんと褒められたことなのかどうかも今ではよく分からないけど

絶望感の中、殺人的な努力とか求められて実行して結果が出た人とか・・・・・・・・

どこか人間性に破壊的な影響出てることあるのかもしれない

自分も、もともとそんなに能力が高いわけでもないのに、

そんな強引な無理な努力をしないと、ほんと乗り越えられないようなことしちゃったから

まぁ、他人に与えられた目標をそのまま達成しようとくそ真面目に本気になって実行するのもどうなのか

自分の能力や限界などを勘案して、ある程度、ほどほどに取り組んで得られる目標を自分で設定するのも

大切といえば大切なのかもしれない