「諦めたら試合終了だよ。その人生で本当に死ぬ時にみじんも後悔ないですか?」

みたいな昨日のチャットにいた会社経営者の人。

あれはなんだったんだろう。

恐らく人間の感性だと、どのように生きても全く後悔のない人生なんてないはずだけれども。

人生は常に選択の連続だから。

何かを選べば、何かを選ばないわけで。

何かを得れば、何か別の可能性を失っているかもしれない。

途中で考え方や思いが変わる場合も、もちろんないわけではないだろう。

場合によっては、考え方が変わった瞬間に、いままでそれでいいと思っていたのが、間違ってたなんて思うかもしれない場合も、ないわけではないかもしれないけど。

それも含めて人生だからねぇ

いろんな生き方があるからなぁ。

諦めたら試合終了ってスラムダンクの安西先生の言葉だけれども。

勝ちに行くようなバスケの試合をしていた人たちの話しであって。

スポーツは趣味程度にゆるく楽しむ人もいれば

健康のためとか、老化防止のためとか。

勝ち負け以外にも、その人の目的に応じて、いろいろな取り組み方があるわけで。

そして何を目的として、どのようにして生きるか、それも人それぞれで、絶対的正解はないし。

学歴生存競争を必死に戦って勝利すべきとか、それが苦手な人はスポーツで熱のこもった専一の悪戦苦闘努力によって勝利を掴めとか、それだけしかしちゃいけないわけではなく、それぞれ思い思いに自分の感性に基づいてさまざまな生き方を選択してもいいのだと思う。

あくまで試合の勝ち負けとかに執着するのであれば、諦めたら試合終了という考え方もあるかもしれないけど。

人生までそのように歩むか、そうしないかもそれぞれの判断だからなぁ。

自分の場合は、今ではもう、地位財産名誉成功栄光栄華勝利によっては人間は大して幸福にならないということに気が付いている。ドーパミンによる一過性の蜃気楼のような幸福で消えるし、これらによる幸福は他者との比較優劣に基づく相対幸福であるから、そういうのは20代とかの配偶者獲得競争とかしてるような時期ではある程度、必要な場合もあるかもしれないけど、40代だったらそんなにもう意識しなくてもいいような気がする。

感覚的な幸福感は、生活していけるお金くらいあれば、もう殆ど頭打ちだからねぇ。まぁ、お金がある程度あることによる快感って、ある程度、持続するのは、安心感というか・・・不安感が少しだけ(10~20%)くらい減ったような感じとしてしか認識できないから。

相対幸福を持続的に意識していようとすると、どうしても他人に対する見下した態度にならざるを得ない。基本的には劣ってるとみなした人に対する優越感によって成立するものだから。

まぁ、それぞれの状況や立場において、ある程度、無駄にあがくことなく、手に入れられるような楽しみや快感を自分自身で模索して生きるのでいいのだと思うけど。

例えば、32歳までに精神疾患を3回も発症してストレス管理で戦線離脱してそのまま40代まで過ごした人が、今から何かの勝負に再び参戦して悪戦苦闘努力をするなんて、40代まで人生経験積んだようなおじさんがそのような愚かしい判断をするかというと、まぁ、自分はしようとは思わないけど。

まぁ、それぞれだ、生き方なんて。