業績主義にもデメリットがある・・・・・・・・・・・・
自分は子供時代は、「学業成績」と「〇〇になること」この2つの「結果だけ」を父親に求められていた。
そして、それに向かって行動するのには、「今その場の承認欲求」が絡んでいた。
それに応えることによって、「将来、一定の道が開けるようになる」と考えていたのかもしれない。
ところが、「結果」だけを目指すと、その結果を得るための最短距離を人間は歩もうとする。
効果的なペーパーテストの点数稼ぎにつながるような、勉強の仕方しかしない。
その結果を得るためには役立つけど、他には全く応用が効かない、勉強になる。
「大学入試に対応した良質の問題集を反復実施する」という「訓練」に「選択と集中」するとか。
人生では、脇道に逸れて、遊びの中から、壁をぶち破るような着想や発想を得ることが大切な場合もあるけど。
がり勉をしていても、そういう力は全くつかない。つまり、生きる力を失う結果になる。
大学時代は、テスト前に「過去問で一夜漬け」でテストを攻略したりしていた。
国家試験対策も、過去問集で勉強した・・・・・それも合格するための点数稼ぎのための勉強だ。
「留年してカネがかかって親に迷惑かけないように」
「親に指定された〇〇に確実になれるように」
これだけで、親に言われたとおり「学業は学生の本分」という指令に従って、勉強して資格を取ったけど。
別にやりたい仕事がなんもなかったから、就職活動はよくわからなかったけど。
大学教授に勧められた会社をなんとなく受けて合格した。
それでもそこまでの受験戦争の競争はかなり激しかったから、
自分を痛めつけて、必死になって求道的な努力をして、苦労を買って出てれば・・・
今まで資格を取ってきた実績のように、自分は救済が得られるはずだという安易な認識で、
悪い指導者の支配に完全に服従して、努力ど根性をしたところ、
精神を病気して生命まで失う危険に晒された。
そして、そのまま、ぼろ雑巾のように使い捨てられそうになった。
入社2年目からは・・・従来のやり方ではなく、23歳の時から、
世の中の、社会の、人間の、ほんとうのところはなんなのか、という学びが始まった
「結果」ではなく、「真実を求める意思」によって生きるようになった。