新自由主義の流入とセットだった思想「自助努力による自己責任」

ほんとこの概念は現在得られている行動遺伝学のエビデンスから考えればまずい・・・・・。

こういうものに対して違和感を感じる、気が付く、疑問に思う・・・・・・・・・・

こういうところが自分を守って生きていく上で大事なんだろうけど。

あれはおかしかったのではないかと・・・考えるようになったのは、20年以上もしたつい最近だ。

それまでは当時は異常に苦しかった記憶はあるけど、明確に問題意識を感じるにまでは至ってなかった。

「自助努力による自己責任を国民に押し付けたことに対する政治責任や経営責任」

これも問われなければならないだろうし。

2000年代の生活がいちばんシンドく感じたのはそこも関係している気がする。

社会全体に、これに苦しんで精神を病んだような人は、あの当時には多かったのかもしれない。

あの当時は就職氷河期で、非正規雇用になった人は、世の中の空気として

「自助努力不足だから、そういう立場になったのは自己責任なのではないですか?」

なんていうような認識もあったような気がする。

労働契約を遥かに超えたプライベートにまで及ぶ企業組織からの強烈な支配介入とかもあった時代だし。

こういうのを告発するということすら、当時は発想として持てなかった。

専門職における自己研鑽は、

自分の時間に自分の高い意識に基づいて行うのは当然との考え方も当時はあったし。

毎晩、業務上の説教を一方的に聞くだけの深夜にまで及ぶ飲み会に

高額の私費を支払って参加させられてた。

それでもそういったものを、労働組合に問題提起するという発想力すら奪い取られていた。

自分を徹底的に痛めつけて、自己犠牲の精神でなんでも滅私奉公して、

がむしゃらになって取り組んで修行する・・・・・・・

こういう自分を不幸にしか至らしめない危うい姿勢というのは

入社した時には既に知らない間に身についていたけど。

こういう考え方をしていたのは、何か社会的なバックボーンがあったのだろうか。

あの当時の時代には、他でもあちこちに同じような思想を持った人が存在していたのだろうか。

やっぱり、世の中、人間、社会に関する幅広い教養を常に得ながら

自分の考えを養っていくというのは、とても大事なことだよなぁ。

それによって自分がどういう姿勢で、どういう考え方で、物事に取り組んでいくか・・・・・・・・

そこに影響するし、その場その場、他人の支配を全面的に受け入れているだけでは、

身を亡ぼす場合もかなりあるだろう・・・・・・。

でも、こういうのは学校教育では一切得られない学びであるから・・・。

実際に、4年間に渡って無理し続けた結果として、精神を病み、自殺寸前にまで至った・・・・・。

そういったかなり不幸な体験も・・・

他人からみれば、それなりの会社で、それなりの給料もらって、やってんだから、

おまえは恵まれてるはずだろ?

周囲の皆様にきちんと感謝してんのか?

なんて全然ズレた話を他人にされて、そのことまで真に受けたりとか・・・・・・・・

どういう人が、どんな錯覚や勘違いに基づいて、どんな発言をしているのかとか・・・・・

自分で判別できないと、ほんと、社会で生きていく中で、危険な目にしか遭わないことになる。