現代の人なら殆ど気が付いてるだろうけど。
地位やお金といったものがどういうものか。
例えば
「インドのスラム街で人力車を引いている車夫とアメリカの中間的なビジネスマンの幸福度が同等だった。」
「年収1兆円の大富豪と年収8万円のアフリカのマサイ族の幸福度が同等だった。」
「戦後70年間で日本人の実質所得は7倍に増加したが、国民幸福度は一貫して横ばいだった。」
まぁ、人間のそれぞれの生活は違っても、何を得て、どのような暮らしをしようと、
しばらくすれば順応して、もとの生化学的な幸福度の設定点に戻り、ただの日常生活が続く・・・・
というだけなんだよね。
だから、恐らく、プーチンやイーロンマスクと、その辺のニートの幸福感もそれほど違わないと思われる
アメリカみたいに貧困層と富裕層で寿命に大きな格差ができたら問題だけれども
健康で文化的な最低限度の生活の保障があれば、
生活さえ成立していれば、人間の普段の幸福感は、お金があろうがなかろうが、大きくは違わない
ということ。
お金がいっぱいある人は、それだけ使うことも多いかもしれないけど、そういう生活に順応してしまえば
もうなんの感動もないただの日常生活であるとしか感じない
人間の幸福感は、どのように生きて、何をしようが、
しばらくすれば、もう生まれたときと殆ど変わっていない・・・・・・
そういうことなんだよね
それなのにもかかわらず、お互い同じような生活満足度で、ただの日常生活を送っている人同士が
持てる者と持たざる者の間で、マウントしたり、妬んだり、争ったり、そういうことをしているということ。
でも実際は、人間は、何を手に入れようが、もともと満足するような生物ではなく、殆ど全員の幸福感は初期値のままであるということ。
そういうのを分かった上で、それぞれがどう生きるか、設計すると、あまり無理によって不幸にならない暮らしができるところがある。
Rちゃんの家では、父親は娘を幸せにしようとして、無理に外交官にしようと、めちゃくちゃな負荷をかけたことによって、かえって娘は非常に苦しい思いをすることになった。
仮に外交官になることができたとしても、それで絶対に幸福になるかというと、それはあくまで幻想や錯覚でしかなく、およそどのような立場でどのような暮らしをしようが、しばらくすれば、もともと生まれ持ってる生化学的な幸福度の設定点に人間は戻って、なんの感動もない日常生活であるとしか認識しないということである。
それでもまだお金や地位を渇望し続けて、自分が無理な生き方をするのかどうかとか。
そういうところの判断である。