相対幸福観念を自分の中から100%完全に撃退できるわけでもないけど

なるべくそれが発現しないようにするためには

あまり過激な生存競争に没入しない、地位財産名誉のための極端な悪戦苦闘努力をしない・・・・

ある程度、いい加減、テキトーを心がけて生きるのが大事なのかもしれない

それから教養として、人間の能力には「遺伝ガチャ」の影響が強く絡んでいることを認識する。

これも大事なのかもしれない。

競争条件さえ同じにすれば、後は、殆どが本人の自助努力による自己責任によって決まっていると考えれば

勝敗を決したのは、勤勉か、怠け者かということになり、それはやはりマウントにつながる。

「遺伝ガチャ」と「さまざまに影響を及ぼす複数の環境要因」の作用の大きさを考えれば

競争での決着なんて殆ど運や偶然によって決まっている・・・・・・これを認識することで。

ある程度、相対幸福に対する執着を取り除くことができるかもしれない。

それから、実際は、人間の快感や苦痛に関していえば、

殆ど、生まれ持った設定点のまま一生過ごすような感じで、

地位財産名誉など他人との比較では実際は殆ど左右されていないというところを教養として認識する。

これでまぁ、ある程度、相対幸福に絡む過度に忌まわしい人間ドラマは一定レベル回避できる可能性もあるのかもしれない

まぁ、でもそれでも完全に相対幸福の呪縛から人間が解放されるということはないけど。

配偶者獲得競争とかにおいては、男性の場合は、かなり強めに地位財産名誉を要求される場合もあるので

まぁ、生物として・・・・女にモテるために相対幸福を希求し続けたところもあるかもしれない。

でも、これも優位に立って女を手に入れる・・・

ということはできても、それが何か持続的な快感とか円満な関係とかにつながるわけでもないけど。

教養は、ある程度の薬にはなるかもしれないけど。完全ではないけど。

結婚できないくらいでは・・・・恐らく社会革命とかは生じることなく、そのまま諦めるかもしれないけど

社会の格差が拡大し続けて、貧困層の生存権が脅かされるような段階にまで至れば、治安の悪化や流血革命が勃発するリスクも高まる。

相対幸福は生存競争にも絡むけれども、誰かに生命の危険を与えるほどにまでなれば、やっぱり良くないことも起きるかもしれない。

健康で文化的な最低限度の生活の保障を受けられている範囲においては、相対幸福観念によって引き起こされる過激な生存競争は一定レベル回避されるかもしれない。

完全に他人と比べずに生きるなんていうのは、生身の人間には恐らくあまりできないのかもしれないけど

生存競争というのは基本的には不幸の主因となるもので、

勝ったからといって幸福とは同じ位相にはないけれども。

相対幸福観念は・・・・生存競争に絡むものだから、意識しすぎるとむしろ不幸かもしれない。