チャットで小学生(11歳の男の子と12歳の女の子)と話していたけど

人間、世の中、社会が、なんなのかわからないのは、46歳の俺と殆ど同じようだった

まぁ、率直に感じた疑問を大切にするのは大事なことだと思うよねぇ

それに関して周囲の人たちとコミュニケーションしながら、自分で書物を手に取り、自己学習して自分で考えていく・・・・・・

大人の言う通りにきちんと言いつけを守って従ってれば、人生がうまくいくという保障など全くないということだよね

人生の経験者の言うとおりに、未熟な子供が従っていれば、うまくいく確率が高まるかと言うと・・・・・そこもわからない

自分の人生がうまくいってると捉えるか、うまくいってないと捉えるかは・・・・あくまでその人個人の主観によるところが大きいから

いい会社にさえ入れば幸せなはずだと社会的な洗脳にかかって思い込んでいれば

実際は精神を病んだり自殺しそうなくらい苦しい状況でも、自分はうまく行ってるはずだと思い込んでいる場合もある・・・・・・・

うーーーーーーーーーーーーーーーーーん

「高学歴難民」の本をちょっと前に読んだけれども

まぁ・・・・・生活はできていても、あまり良さそうには思えないのは・・・・・・・・・・・・・・

当初は栄光や成功をつかむために極端な努力ばかりしていたのにも関わらず、

それが全く実現しないで手取り月10万円とかで生活しているのは、

本人が、その立場に甘んじていなければ、かなり苦しい思いを引きずっているのではないか

と思えるところだよねぇ

具体的に多いのは

「国立大学の大学院で博士号を取って、大学の非常勤講師をしながら、塾講師を掛け持ちして、月手取り10万円とかで働いている人が量産されるポスドク問題。」

とか

「法科大学院で法律の勉強を必死にしたけれども、弁護士試験に3度落ちて、そのままニートや法律事務所の事務員で、時々、蒸発したり自殺者が出る。」

とか

「海外留学から戻ってきた帰国子女けど、就職先もなく、英会話教室の講師くらいしか仕事が無くて、生活ぎりぎり。」

とか

もともと初めからそういう立場に甘んじるつもりだったのであれば、まぁ、生活できてれば、そこまで強い挫折感は引きずらないかもしれないけど

もともと成功するつもりで、めちゃくちゃな悪戦苦闘努力の生存競争をして、実らなかった・・・・・・ってのは、引きずれば苦しい。

現在では、人間の人生のかなり多くの部分が運や偶然によって決まっていて、本人の意思や努力が律速段階であるとは考えられていない。

遺伝子の影響を考慮する必要があるということだよねぇ

たとえば、遺伝的な知的能力を数値化したポリジェニックスコアというので、スコア上位25%と下位25%の人を比較すると、

環境や努力の影響を全く考慮せず、遺伝子の影響だけで、大学進学率に4倍もの差があることが、アメリカでの研究で明らかになっている。

遺伝の影響というのは、両親の持っている形質がそのまま受け継がれるわけではない

両親から23本ずつの染色体を受け取るとしても、その組み合わせは40兆通りもあり、どういう形質が初期設定されて生まれてくるかは分からないのだ

だから、サイコロみたいなものである

「子供時代に我慢してたくさん勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職しろ!」

というゴリ押しの指令は、この生物界の遺伝的多様性の存在を否定しているようなものである・・・・・・・・・・

それぞれその人の素質や能力や特性にあった、その人なりの人生もあるのではないか・・・・・・・

というところが、ある程度、エビデンスで示されてきている。

30年くらい前の親たちの態度は

「子どもたちは世の中の仕組みを大人みたいに理解できていないから、今、自分に必要なことを自分で判断する能力がない。」

みたいな形で、子供の本意かどうかに関係なく、親がかわりに考えて無理やり学歴生存競争を強いていたところがあった。

ところが、近年は、人間の幸福についてもエビデンスで解明する流れがあり・・・・・・・・・・・

競争に打ち勝つことで得る地位財産名誉成功栄光栄華勝利などによっては持続的な快感を得ることは人間はほぼ不可能であることも分かってきているし

個人個人が持つ素質や能力や特性も、生まれたときの段階でだいぶ個人差があり、ヨーイドンで競争条件を同じにしてスタートさえすれば

それは公正な競争であって、あとは自助努力の差でしかない・・・・・というわけでもないことがエビデンスで明らかになってきた

自分の得意分野をみつけてそこで戦うという判断も時には必要であるし

場合によってはそこまで勝利に固執せず、平凡に暮らすことを初めから目指すのもありなのかもしれない

スポーツの能力については、かなり以前からそういった遺伝的な差が世間に認識されていた

足が速い人は、何の訓練もしなくても、小学生の段階で、初めから明らかに足の速い人がいることは、もうだいぶ以前から分かっていたけれども

知的能力の遺伝的な差については、従来、この社会は認めてきていなかった

それを認めると、恐らく自由競争の正当性・・・・この自由主義社会の存立基盤が覆されることがある程度、分かっていたから、触れなかったのかもしれない。

まぁ、そういうことが次第にわかってくると、他人が、「あなたの生き方はこうすれば正解である」と決めつけるようなことは本来できないことがわかる。

あくまでそれぞれが自分の感性や価値観や素質、能力、適性等によって自由に選択するものでしかないのではないか・・・・・・・

生き方に正解などないのではないか・・・・・・なんてことになってくる。

どういう分野でどのように生きるか、みんなにとって同じ答えがあったら、社会的分業なんて成立しないし

どうなっているんだろう・・・・・・・・・・・・・・・・

まぁ、従来からよくあったのは、学歴のある人がない人にマウントを取って優越性を誇示するようなケースも多々見られた・・・・・・・・

でも、それが遺伝子で最初からある程度、決まっているのであれば、

サイコロ振って1が出たか、6が出たかで、過剰にマウントするのは不適切な行動であることがわかる。

生まれ持った知的能力の差は、社会的地位だけでなく、犯罪傾向にも影響していることが明らかになっている。

医療少年院という場所には、境界知能・・・・・いわゆる知的障害とも認定されないけれども、通常の社会生活をするのも難しいような

偏差値30程度(下位15%程度)のケーキを3等分できないような子供がたくさん入所しているらしい

本来、通常の知的能力の人が引っかからないような、特殊詐欺の受け子としての求人募集に自分の免許証を送付して応募してしまい、

警察に相談することもなく、そのまま犯罪組織に利用されて自分自身が警察に捕まるとか・・・・・そういうこともあるようである。

ただ、こういうものに関しても生まれ持ってる知的能力がかなり左右しているのであれば

親の責任とも、子の自己責任とも言い切れない、誰にもコントロールできない自然界の運や偶然が絡んでいるともいえる。

凶悪犯罪者でさえ、脳のMAO(モノアミンオキシダーゼ)という酵素の活性が遺伝的に高い傾向にあることも分かっている。

ただ、だからといって生まれた時に遺伝子検査をして、職業を与えたり、収容所で施設生活をさせたりするのであれば、それは人権の概念に反してしまう。

これからどういう社会になっていくのは、分からないけれども、自由や平等の概念に一致しないような人間の本来の姿が浮き彫りになってきているようである。

まぁ、こういうのが次第に明らかになってくるとね

誰かがノーベル賞を受賞したからといって、それが一重に育てた親や恩師の功績のおかげだから感謝すべきとも言い切れないし

誰かが凶悪犯罪者になったからといって、本人の身から出た錆とか自己責任だけでは片づけられない・・・・・なんて世界になってくるんだろうけど

かなりの要素がたまたまの運や偶然によって左右されているというのであればね・・・・・

まぁ、そうなってくると、現行の法秩序すらも、それでいいのかって話にもなりうるし

全く、混沌としてくるような気がするよねぇ