「人生の究極の目的は、幸せになることである」と考える思想が幸福主義だけれども

「幸福とは何か」ということになると

アリストテレスは「知ることである」と述べた

彼の残した言葉に、「人間は生まれながらにして知ることを欲する」というものがある

なにかを知ろうとすることは人間の根源的な欲求であり、その欲求を満たすこと、勉強して森羅万象の真理を少しでも多く知ることが幸福なのだとアリストテレスは言った。

自分もそれは経験上も大いに共感できるところがある

教養を得るということは、どんどん精神活動の自由を拡張していくことができる

次第に、誰かの言った特定の価値観や思想や常識によって支配コントロールされることなく、自由に捉えて考察していくことができるようになる。

一方、世の中の多数派では・・・・・・

ソクラテスの弟子であるアリスティッポスが言ったような、最高善はやはり幸福の追求であるが、幸福とは快楽である。と述べた。

快かったり楽しかったり、心地よいと思える感覚(出来事)を少しでも多く経験することが幸福であり、人生の目的であるとした。

これは「快楽主義」や「享楽主義」と呼ばれている。

ベンサムの功利主義もこれに基づいていて、快楽計算を行い「最大多数の最大幸福」を実現しようとする、その方針は、快楽主義の幸福感に基づいたものである。

政治や集団の方向性はほとんどの場合功利主義によって決められることを考えれば、世の中に最も浸透している幸福の定義が「幸福=快楽」ということになりそうだ。

しかし、ここで注意が必要なことは、人間はどれだけ快楽をかき集めようとしても、それは一過性に消失するものでしかないということである。

「最大多数の最大幸福の実現」は民主主義の理想ではあるのだけれども

戦後の日本人の幸福度の推移を見てみると、戦争直後の焼け野原のアフリカの難民キャンプさながらだったような時から、数年間で所得が倍増した高度成長期、高級クラブや料亭で接待ずくしだったバブル期、バブル崩壊後の失われた30年、リーマンショック、その後も、ずっと国民幸福度は一貫して横ばいのままである。

つまり、民主主義の本来の理想は全く実現できていないことになる。

人間の快感はあくまで一過性に消失し、蓄積や累積ができるものではない。

たとえば、自らの肩書を増やしていくことに価値を見出す人もいる。

受験戦争に勝って東大に入りました、しばらくすればなんとも感じない。大学院でハーバード大学に行きました。しばらくすればなんとも感じない。

その後財閥系企業に入社しました。しばらくすればなんとも感じない。課長になっても、部長になっても、常務になっても、社長になっても。

一回ごとに興奮して環境変化からストレスを被って、しばらくして順応してなんとも感じなくなるというのをずっと繰り返すだけで。

経歴が蓄積されていくたびに、幸福感がどんどん累積されていくといったことは、人間の感性では決して生じないメカニズムになっている。

人間が快楽を感じるためには、苦痛が対になっているという説もある。

お腹が空いている苦痛があるから、食事をしたら満たされるとか。

不自由があるから、自由が幸せに感じるとか。

多忙なストレスがあるから、余暇で落ち着くとか。

そういうものだ・・・・・しかし、人間は苦痛は比較的持続的に体感するのに対し、快感はあくまで一過性に消失する。

自分は病気による実家療養から復帰したときのことを思い出す。

自分で生計を立てて一人暮らしをできる普通の生活がどれだけ幸せなことか、復帰直後は健康の大切さをすごく感じるのだけれども。

2週間くらいすると、もうそれは当たり前の日常になっていて、日々の雑事から苦痛やストレスを被っている。

やはり、元に戻るのである。しばらくすればありがたみも忘れてしまう。

快楽はランニングマシーンのように、いくら追求しても永遠にスタート地点のままなのである。

これは、イーロンマスクのような人になっても全く同じである。

普段の幸福感はもともと生まれ持った生化学的な幸福度の設定点のままである。ニートとさほど変わらない。

これが快楽主義や享楽主義の限界である。