幸福論・幸福学 という、マイブームが終息段階に入りつつある。
「幸福になることを目指す」・・・これがそもそもの誤りだということに気が付き始めた。
1981年にハーバード大学で始まったとされる、「幸福学」では、世界有数のエリート校である、ハーバード大学のOBに、
社会的成功を手にしたのにも関わらず、不幸になっている人が大勢いることに反応して、研究室が設置されたのが始まりだった。
そこで、人間の幸福について研究が進んできていた。
日本の幸福学の研究者は・・・慶応大学の前野教授くらいしか知らないが、あまりいない。
でも、これも、真剣に研究してもしょーーーもない分野だったのかもしれない。
新しいエビデンスに基づいた学問であれば、過去の哲学者よりも、ちゃんとした知見が得られるのかというと。
そうとは限らないということなのかもしれないなぁ。
19世紀の哲学者、ショーペンハウアーはこう言っている。
+++++
幸福に生きる前提
どんな幸福論も、「幸福に生きる」とは「あまり不幸でなく生きる」、すなわち我慢できる人生を生きることだという点を認識するところから始まらなければならない。
もともと人生は、楽しむべきものではなく、克服し、乗り越えるべきものなのである。
+++++
「より幸福に近づく」というところは目標地点がそもそも間違っているのではないかというところだ。
「克服し」「乗り越える」というのが本来の人生であるということのようだ。
幸福学よりは、こっちの方が、本質を突いているのかなぁ・・・・・。
んーーーーーーーーーーーーー。
そっちのほうが、しっくりくるかなぁ。
いつから、人類は、幸福追求病患者として、彷徨うにようになったのだろうか・・・・・・・・・。
我慢できる範囲の人生で良し、、、、とするのが、王道なのだろうか。
そのくらいにまで、自分の希望の水準をさげたときにこそ、ある程度、生きるに値する人生になってくるのかなぁ
バラ色の人生のような、この世に存在しない幸福を追求しようなどというのが、そもそもバカのやることなのかもしれない。
バラ色の人生などというものは、およそ地上には存在しない上に、これを得るための悪戦苦闘努力が大災厄をもたらしてしまう。
それよりもむしろ、「幸福の実現」よりも「我慢可能な人生」を目標にするのが正道だろうか。
そもそもの目標設定がズレてる、、、ということなのかもしれない。
宗教の力なんか借りずに、自力で調べて、自力で学んで、自力で考えたほうが、もっと真理に近づきやすいのではないだろうか。

んーーーーーーーーーーー
どうなんだろうなぁ・・・・・・・・・幸福になるためのメソッドとかって
いまいちピンとこない
結局、本人が生きたいように生きる、本人が快適さを自由に追求する、そういうことなのだろうか・・・・・・・・
「自分」も「子供」も「他人」も・・・・それぞれ自分が思う通りに好きに生きればいい・・・・ということだろうか
「一定の思想に基づく誰かの期待に応えようとしない」、そして、「一定の思想に基づいて自分も誰かに期待しない」・・・ということだろうか
基本的にはどう生きても、人間の幸福や快感や喜びは1割くらいで、人生の9割くらいは、苦痛なのかもしれないから
苦痛で苦しんでいる身近な人を救おうと何か言葉をかけたりとかしても、救えるものでもないし
自分自身すら、いや、人間存在そのものが、救われない存在なのかもしれないけど・・・・・・・・
んーーーーーーーーーーー
最終的には「どう生きるか」というテーマなんだろうけど
この追求に熱中するのは、楽しい。
どう生きるか、考えても、答えを出すまでに、生涯をささげることにもなりそうだけど

うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。
どう生きようが、人生に、幸不幸、大差ないのだろうか?
なんか、最適解を求めたくなるのだけれども。
それでも、どこかに、わずかばかりでも、できるだけ、幸福に近づける道はないものかと・・・。
最終的には、それぞれが納得する人生を、それぞれがすすめばいいだけ・・・・ということだろうか。
それぞれが、それぞれの信念に従って、それぞれ生きればいい・・・・・・・・・・・。
そういうことになるのだろうか。
でも、20代までは、過剰な生存競争を煽られて苦しみもがいたよなぁ・・・・・。
あんな体験はもうしたくない、と思う。
人の幸福に関して
気質など遺伝によるものが50%
環境によるものが10%
その他40%
ということだけど。
地位財産名誉など、それまで求めていたものが10%しかなかった衝撃をいつまでも語っているのではなく。
そろそろ40%の中身に目を向けてもいい気分になってきた。
心理学研究が証明した正しい”幸福度の高め方”|年収や結婚は幸福度に影響しない
http://magiciandaisuke.com/?p=4107
このサイトでは
50%は、「遺伝によって決まっている」
40%が「意図的な行動」
そして残りの10%が「環境」
としている。
+++++++++++++++++++++
「環境」というのは、
•お金をたくさん持っているか?
•結婚しているか?
•自分の容姿の美しさ?
•広い家?
•仕事がうまくいっているか?
•健康かどうか?
のようなものです。
これらは幸福度100%の内、最大でもわずか10%しか占めていないということらしい。
++++++++++++++++++++++
40%の「意図的な行動」とは
++++++++++++++++++++++
•他人と比較しない
•楽観的になる
•感謝の気持ちを表す
•人を許す
•熱中できる活動を増やす
•目標達成に全力を尽くす
++++++++++++++++++++++
「他人と比較しない」独自のスタンスというのは、自分は最近はある程度、できてきてるけどねぇ。
ちょっと前までは、自分の年収の相対的な位置にかなり敏感だったけれども、
幸福について詳しくいろいろ読書をしたことで、この辺は若干だけれども、和らいできている。
今では昇進しなくても別にいいと思えてるし。
「他人と比較しない」・・・これが一番やりやすいけど、これを徹底追及すべきだろうか。
でも、人間が生存のために設計された生化学的アルゴリズムであるのならば、本能的にまず人と比べちゃうだろうからなぁ。
これも、本能に反する目標を、あえて「心がけなければ」なかなか難しい要素だよなぁ。
「楽観的になる」・・・・これは自分にとっては究極的に難しい。
これは50%の遺伝に含まれるものじゃないかなぁ・・・・朗らかな性格か、悲観的な性格か、というのは。
リスクばかりに目が向きやすい・・・。
楽観的になるにはどうすればいいか?
それに関して、高い有効性が確認された方法というものがあるのか?というのが問題。
宗教みたく、非人間的な人格に自分を作り変えるために、ものすごい修行をさせて、
結果、誰も悟りに至れない・・・みたいなものでは困るんだよなぁ。
いくら「楽観的になれ!」と体育会系のゴリ押しで自分に銘じても、実効性がないように感じるからなぁ
「感謝の気持を表す」これは20代前半頃には企図したが・・・困難を極めた。
思ってもいない感謝を示してもダメで、気持ちがあるときに、その気持ちを表さないと、ただの虚礼になってしまう。
感謝を感じたときに、それを言うか、言わないかとなったら、それは言った方がいいということなら、わかる。
自分は20代前半に読んだ本で、「内観」という、感謝の情を内面から引き出すトレーニング法というものを検討したのだけれども。
これは宗教みたいなもので、感謝の情がたくさん湧き上がってくるように、自己改造する修行の方が、むしろかなり苦痛であると思った。
感謝した際に分泌されるエンドルフィンは意図的にコントロールできるものなのか、、、というところだよなぁ。
心臓の拍動とか脈拍とか血圧を意図的に自在に変化させるといったような、離れ業ではないのだろうか?
それができるんだったら、自分の意志で、直接的に、ドーパミンとか、セロトニンとか、エンドルフィンとか、オキシトシンとか、出して、ハイになれてしまうわけであって。
感謝に関しても、「楽観的になる」というのと同じで
それに関して、どのようにしたら、高い確率で感謝の情が発生できるようになるのか?
その方法について、高い有効性が確認された方法がみつかっているのか?というのが問題。
これも宗教みたいに、さんざん修行させておいて、誰も身に着けられないような方策では困るんだよなぁ。
幸福になるための悪戦苦闘努力によって、むしろ不幸な状態になってしまっては、本末転倒なわけであって。
感謝にはエンドルフィンという快楽物質が関与している。
「感謝するから、エンドルフィンが出るのか。」
「エンドルフィンが出るから、感謝するのか。」
しばらく検討したことがあったが
自分は、そのどっちでもなく
「感謝の情が沸き上がってきたときには、エンドルフィンが出ている状態である。」
こういうことだと思うんだよね。
運動能力にも知的能力にも幸福を感じやすいかどうかにも、遺伝によって違いがあるように、
エンドルフィンが出やすいかどうかにも、もともとの個人の特性があるのではないかと自分には思えるなぁ。
しかも、エンドルフィンも、ほんの一時的な快楽物質で長期間持続する性質のものではないことも明らかになっている。
まぁ・・・・・・・・・感謝に関しては棚上げだな。
感謝の情が沸き上がってきた場合に、それを表現するかしないかといったら、表現した方がいい・・・この程度の認識でいいのかもしれない。
「人を許す」
これも、レベルによるよな・・・・・。
昔は職場で傘を盗まれて、すごく頭に来ていたけど。
今は、傘泥棒被害にあったくらいだったら、なんとも思わないけど。
でも、父親に煽られたとおりに、10年間も必死に勉強して、受験戦争という過激な生存競争に生き残って、なんとか父親の期待通りに一定の資格職になりました。
ってところで、父親に強烈に妬まれた・・・・っていうのは、今でも、不快なものは不快だよな・・・・・・・・・・・。
成長しろとのプレッシャーを猛烈にかけられて、言う通りにして大変な努力をして急成長したら、猛烈にクソぼっこに潰された・・・これをやった人も、まだ不快に感じるなぁ・・・。
職場では、長が最近、みんなに影でパワハラパワハラって言われて、部下の間に恨みが募ってるみたいだけど。
俺は、今ではそのレベルのことには全然、反応していない。
許すというか、反応しなくなってる。なんとも感じない。
人を許すというよりも、怒りの感情が沸き上がらない、感性や反応が鈍くなってきた、なら、加齢と共に、だいぶ俺はできるようになってきてるけど。
まぁ、それでも、以前よりは苦しみは減ったかな。
「熱中できる活動を増やす」
これは今はやってはいないけれども、20代後半から30代前半にかけて趣味をたくさん拡張した時期があった。
海釣り、スノーボード、漫画、読書、トレッキング、水彩画教室、ピアノ教室、美食、キャバクラ・・・・
でも、もうキャバクラと読書以外は飽きたな・・・・・。
「熱中し続ける」っていうのは、かなり難しい・・・・・やっぱり、何やってもいずれ飽きる。
趣味なんかで大して幸福になるようには思えない。
しかも、これらの趣味も、結局、金をかけてやってるわけだから・・・・考えてみれば10%の地位財が基礎になっている。
「目標達成に全力を尽くす」
だいぶ抽象的な表現だなぁ。
どういう目標のことを指して言っているのだろうか。
19世紀の哲学者ショーペンハウアーは
地位財産名誉成功栄光栄華勝利のようなものを目指した悪戦苦闘努力は、幸福になるどころか大災厄をもたらす的なことを言っていた。
それ以外の目標に対して全力を尽くすということだろうか・・・・・?
他に目標を置いて達成するものって・・・・趣味を極めるとか、地位財等以外のものを目標にして仕事で何かを成し遂げるとかだろうか。
しかし、趣味も飽きるし、目標達成してしまえばそこで終わる。
スノーボードは上級者コースを滑れるようになったとたんに満足してもう飽きた。
趣味でも、種別が限らてくるよなぁ。
賭け事とか、勝負事とかだとダメだろうし。
芸術とかもさ・・・・・・・その世界の巨匠になってやるとかいうのを目指すと。
それは他者との比較優劣とか名誉とか、やっぱりその辺の話になってくるから。
幸福学も、どうもいまいち、なんだか、ぱっとしないよなぁ・・・・・・・・・・・。
んーーーーーーーーーーー
なんだろうなぁ
10%の環境要因に関するものは具体性があるけれども
40%も占めるとされるその他の要素については・・・抽象的すぎるんだよな。
まぁ・・・・そのことが、40%の他の要素に、これまでちゃんと目が向かなかった理由でもあるんだけど。
一応、40%の部分も、今まで何度か見返したのだけれども、
いまいちぱっとしなかったのは、「抽象的過ぎて、どう取り組んだらいいかわからない。」ということだろう
それは、また今、見直して、ちゃんと検討してみても、消えることのない、モヤモヤである・・・・・。
なんで道徳なんか、教育するんだろうな?
「道徳」が必要なのは小学生より中高年だ
子どものマナーは良くなっている
政治・社会 2018.10.12 #教育 #道徳
https://president.jp/articles/-/26399
+++++
命を大切にする、弱いものに対しては自分のできる範囲で助けていくといった考えは、思想信条の壁を越えて、ほぼ、人間の守るべき規範として共通理解を得られるかもしれない。だが、「親を大切にする」とか「国や郷土を愛する」「集団のなかで決まりを守って生活する」といった規範については、すべての人に理解を得られるとは限るまい。子どもが素直に親を大切にできる家庭は幸せだが、世の中にはそういった関係が築けない家庭も現実的にはたくさんある。国や集団に対する考え方も同じだ。何が全員の共通理解となるか、それを国民全体で議論してみる価値はある。
+++++
うーーーーーん。
いや
「弱いものに対しては自分のできる範囲で助けていく」
なんてのは、日本で共通了解なんか取れるわけもない。
「最も社会的に力のない存在から暴力的な収奪を行うのは人として当然のことだ。」
これが日本国民の「強固な信念」であり、「総意」ではなかろうか。
この国の世代間格差は
「まだ生まれていない将来世代は生涯所得の50%の純負担を背負い、生まれる前から生活が破綻している。」
「孫と祖父で生涯における社会保障の受益と負担のギャップは、生涯賃金3億円としても1億2千万円にのぼる。」
と世代会計の分野で既に計算されてから10年くらい経過している。
まだ参政権もない、有無もいえない非力な存在を、政治に巻き込み、毎年30兆円以上も将来世代に借金を着せて大人は好き放題やっている。
いわゆる、「財政的幼児虐待」の問題である。
世界一、世代間格差がぶっちぎりで大きい日本で、これが指摘されてからもう10年くらい経過はしているだろうけれども、
選挙の際に「世代間格差是正」を公約に掲げる政党は今もひとつもない。
なぜか?・・・・そんな公約を掲げたら国民に支持されず、票を入れてもらえなくなるからである。
国民の多くが世代間格差が問題であると是正を訴えるような状況になれば、自然とそれを公約に掲げる政党が出てきて得票を伸ばすはずだ。
それが民主主義国家というものである。
しかし、実際は、世代間格差是正に関しては多くの国民が望んでいないということだ。
つまり、日本国民の強固な信念というのは
「有無もいえない弱者を数の力で虐げ、最も社会的に力のない存在から暴力的な収奪を行うのは人として当然のことだ。」
ということである。
さて、そんな日本の大人たちに、道徳を説く資格などあるのだろうか?
不適格であることは、言うまでもない。
この国では、子供をつくった時点で、財政的幼児虐待の、虐待加害者になるということは、言うまでもない。
人殺しに人殺しと言って何が悪い。
泥棒に泥棒と言って何が悪い。
この国では、政府国民一丸となって、財政的幼児虐待を行っているというのは事実である。
事実を指摘して何が悪い。
事実を指摘する者が悪いのではなく、まず、自分たち自身の行動を、改めるべきではないのだろうか。
要するに、財政的幼児虐待をやめたらどうか、ということだ。
消費税に換算して40~60%相当の増税でも、年金に換算して1/4にするのに相当する社会保障のカットでも、いい。
まず、大人自身が襟を正すべきではなかろうか。
最も悪辣で不道徳極まりない、現在の日本の大人たちが、子供たちに道徳を説く資格など、これっぽっちも、あるわけがない。
うーーーん。
 
結局、どう生きるのが正解なのか。
 
ポイントとなるのは、「生存競争」と「幸福追求」は、全く別のものであるというところだよなぁ。
 
幸福追求という観点では、地位財はあまり意味をなさない。
 
「年収1兆円の富豪も、年収8万円のアフリカのマサイ族も幸福度は同じ」
 
「インドのスラム街で人力車を引いている車夫も、アメリカの平均的なビジネスマンも幸福度は同じ」
 
「宝くじ5000万円以上を当選しても、半年後には幸福度は一般人と同じ」
 
「日本人の生活満足度は、戦後、実質所得が6倍に増えても、ずっと横ばい」
 
だけれども、生存競争という観点では・・・・地位財はあればあっただけ、いいということになる。
 
(政治でいえば、経済を発展させて、技術革新を起こしてテクノロジーによって軍事を強化したかしないかが、パワーバランスに影響する。)
 
しかし、現状の日本では、餓死する人など、年間50人くらいしかいない。
 
年収200万円でも子供は育てられるのかもしれないけど。
 
貧困が子々孫々に連鎖していく。
 
うーーーーん。
 
戦後の日本の状況なんかは、大衆は、みんな、あれだよね、アフリカの難民みたいな生活をしていたけれども。
 
今の時代だと国民全員の生活の質が高まり過ぎているから、相対的な違いを意識しないでいるのも、なかなか難しい話だけれども。
 
んーーーーーーー。
 
ただ、生存競争に関しては、ものすごい精神的負荷を与えるということだよねぇ・・・。
 
例えば、受験戦争とか。
 
ものすごい熾烈な生存競争だけれども・・・・・
 
東大卒の平均年収は・・・・630万円。
 
年収という点でみれば、学歴でそんなに格差ができるわけではないんだよねぇ。
 
東大に入りさえすればすごい地位財を得てバラ色の人生なはずだと、フォーカシング・イリュージョンして猛烈に悪戦苦闘努力をする。
 
そういう場合は、東大に落ちて、早稲田に受かったとしても、バラ色になるはずだった人生を逃したと、猛烈な挫折感に苦しむ人もいる
 
逆に、猛烈に努力して、東大に受かったとしても、バラ色だったはずの人生と、現実とのギャップに猛烈に苦しんだりする。
 
ようは、生存競争というのも、行き過ぎて、求めれば求めるほど、苦しみの地獄にはまっていくんだよねぇ・・・・・
 
スポーツもそうだ。
 
インターハイで勝つこととか、勝ち負けに過激にこだわりすぎて悪戦苦闘努力すると、勝敗によって、躁鬱のような状態になる
 
一方、趣味程度に軽い運動程度に部活を楽しむと、運動ほんらいの楽しさが味わえる。
 
自分の実力以上に目標を高く持てば、どれだけ力があっても、永遠に、「うまくいかない」し、「挫折」も何度も経験し続ける。
 
目標を半分くらいにして、そこそこ努力する程度であれば、そんなに精神的なダメージは被らない。
 
ある程度「足るを知る」ことが、自分自身への苦しみを軽減する方策にはなるのだけれども。
 
どこまで欲を追及するかだよなぁ。
 
特に、人間の場合は、何を達成しようが、幸福感は長続きしないのに対して、
 
苦痛に関しては持続的に、かつリアルに感じるように、生化学システムができている
 
ものすごい悪戦苦闘努力しても、悪戦苦闘努力から生じる長い苦しみに晒される一方で、目標を達成した際の幸福感はわずかばかりのものだ
 
ならば、努力などはじめっからしない、というのもひとつの哲学ではあるのかもしれない
 
しかし、努力をしないというのは、資本主義社会のシステムにとっては都合がよろしくない
 
常に会社を成長させて、利益を、株主や債権者に、渡していかなければならないのである
 
うーーーーーん
 
資本主義社会において「消費行動によって得られる幸福」も、わずかばかりの期間で消えてしまうのに
 
そのための悪戦苦闘努力は半端なく求められてしまうのである
 
それで人々の幸福にかなうのか・・・?となると、疑問符がつくことには、気が付いている人は、気が付いているかもしれない。
 
どの社会システムも、完璧なものなんて存在しないけれども。
 
社会システムの欠陥に気が付き始める人は、今後、だいぶ増えてくるかもしれないよな。
 
俺でさえ、気が付いてる段階なんだから。
 
まぁ、なにごとも、ほどほどくらいが、ちょうどいいのかもしれないな・・・・・

月刊SPA やれる女子大

テーマ:

月刊SPAが、ヤれる女子大のランキングをつけたとかで社会的批判を浴びてるけど。

逆に女性誌は、男に関して、将来有望な大学のランキングとか、やってないのか?って疑問が生じる。

それも、ようは、男を、「馬車馬」だとか、「人間ATM」としか思っていないわけだから

それも人としての尊厳を傷つける行為だよねぇ

「感謝を取り巻く人間模様」は・・・もうちょっと詳しく観察してみた方がいいかな。

日本は仏教国だから、「感謝」が・・・どうも、特別な地位にあるような気がするんだよね。

「怒りっぽい性格」とか「悲観的な性格」とかでは、あそこまで責められることはないけど

「感謝できない性格」っていうのは、かなり日本では重罪であると認識されているようだ。

別に、「人を殺した」わけでも、「窃盗」など、何らかの犯罪を犯したわけでも、なんでもないのに。

んーーーー、興味深いな。

下手すると、「人に感謝できる万引き犯」よりも「人に感謝できない非犯罪者」の方が、

日本では激しい非難に晒されているかもしれない。

「人に感謝できる傘泥棒」よりも「人に感謝できない非犯罪者」が非難されるとかね。

「人に感謝できるいじめっこ」よりも「人に感謝できないいじめられっこ」の方が悪いとか。

たぶん日本はそういう状態。

海外ではどうなんだろうなぁ・・・・たぶん、これ日本に特徴的な思想傾向だと思うけど。

「幸福」に関する哲学や心理学においても

「感謝をすることが幸せにつながる」という説が、かなり強めに主張されている文献と、

そんなことには全く触れられていない文献とがある

「医療危機」を全国民の問題に、厚労省懇談会が宣言 - 医師・患者・行政・民間企業へアクション提示
12/18(火) 16:30配信

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181218-16300000-cbn-soci&fbclid=IwAR0v1Ojky9QGURVoPwgN6nSXu0raMVJIdPzkEbVnHOdeeU7bg3r4Un-fhwA

ふむ。

医学部不正入試の背景はこういったところにあると思うよなぁ。

医学部を受験する女子高生に対して、躍起になって、結婚時のことを面接で質問してくる、医療業界の中身はどうなっているのか。

その背景を詳しく調べて、原因をみつけて、それに対策しなければ、見かけ上の女性差別だけなくしてもなんの解決にもならない。

むしろ、ますます、現場に皺が寄ることだろう。

医師の現場は、日本人の職業の中でもっとも「ブラック」な長時間労働が行われているようだ。

そういえば、昔、魚釣りを教わっていた救命医は、

昼間も夜間も働きっぱなしで、自宅に帰れるのが月1とか言ってたな

あとは病院にずっと泊まりっぱなしで、昼と夜では、書面上の雇用主が違うって言ってた。

同じにすると、長時間労働で引っ掛かっちゃうから、ってことだったみたい。

一日2~3時間も寝てたのかなぁ。

歯医者に行く暇がなくて、歯が痛い、歯が痛い、って苦しんでたなぁ。

まぁ・・・・・救命医は特に忙しいにしてもさ。

そういう状況でさ、産休・育休・時短なんかとったら、男性医師にさらにものすごい皺が寄るわけで。

入試の女性差別をなくすのであれば、女医にも男性医師と同等に働いてもらわなきゃいけないわけで。

女医が男性医師と同等に働かないっていうのも差別の一種だからね。

だから、女医だろうと、男性医師だろうと、どちらであっても、育休や時短が取れるような労働環境にするには、、、ってなると。

医学部の定員をもっと増やすしかないだろうけど。

医学部の定員は増やしても、医師数に顕著に変化が現れるのは、それから10~20年先になってくるからね。

だから、慌てて医学部の入試差別をなくすことになった医師の業界は今後どうなるかというと。

女医は増えるけれども、忙しすぎて、共働きはできず、結婚を諦めるしかなくなるだろうね

どうしても子孫を残したいなら、フリーターやニート男性と結婚して専業主夫でも養うしかないかもしれないけど。

女性はそれをするくらいなら、一生一人でいる方を選ぶからね。

まぁ・・・・・・・・・・入試の女性差別だけを悪の権化であるかのように仕立て上げて叩いても、なんも解決しないわけ。

懐かしい曲を聴いていた。

テーマ:
思い出したようにキースジャレットを聞いていた。
Uチューブに殆ど全部の曲が公式にアップロードされたみたいだねぇ。
キースは20代前半ころにハマってたアーティストだ。
10年位前にキャバ嬢を連れて、渋谷のオーチャードホールにソロコンサートを聞きに行ったことがある。
あとは、5年くらい前にも、行こうとしてチケットは取ってあったんだけど。
その当時って、アイコスがまだなかったから、ヘビースモーカーの俺は咳がすごい出ていて。
東京公演の前の、大阪公演のときに、キースが客の咳払いに激怒して演奏をやめた事件があったことを聞きつけて。
怖くなって、チケットを取ってあったのに、行かなかったことが一度あった。
キースまだ生きてるのかなぁ。
名作は1970年代に発表されてるから・・・・もうそれから40年も経ってるけど。
keith jarrett radiance part 8

https://www.youtube.com/watch?v=DSHzgmRaznU

 

keith jarrett heartland
https://www.youtube.com/watch?v=XY9EuN0hgOI

 

 

keith jarrett Köln, January 24, 1975, Pt. II B (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=mDmHZXpWCGk

 

 

keith jarrett Köln, January 24, 1975, Pt. I (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=zoqscGCtlDU

 

 

keith jarrett Hymn Of Remembrance
https://www.youtube.com/watch?v=qsqqvVUXgpM
これはキースの曲では数少ないパイプオルガンの曲

 

 

keith jarrett: Book Of Ways - 18
https://www.youtube.com/watch?v=zJcffGhZ4zs
これはキースの曲では数少ないチェンバロのオリジナル曲。

 

 

 
どれもよく聞いたなつかしい曲だ。

幸福は蜃気楼。

テーマ:
幸福とは・・・?
20代までは、人間は、地位財産名誉で幸せになると思い込んで走ってきたけれども。
20代半ばで、それでは人間は殆ど幸せにならないことに気が付き。
30代後半になって、幸福論(哲学)や幸福学(心理学)を漁るようになりました。
幸福とは何なのでしょうか・・・・・・。
生化学からみた幸福というのは、
脳内で、ドーパミンやセロトニンが分泌された際に、感じるものですが
これは長期間は分泌され続けないようです
また、地位財産名誉成功栄光栄華勝利によっては人間は大して幸福にならないどころか
それを得るための悪戦苦闘努力が大災厄をもたらすというようなことを、19世紀の哲学者ショーペンハウアーは言っています
ショーペンハウアー的にいえば・・・幸福追求は蜃気楼だけれども、あえて言及するとすれば
「健康で朗らか」が一番幸福
すなわち、「完全健康で朗らかな乞食は、病気がちで悲観的な王様よりも幸福である。」とのことでした
しかし、朗らかかどうかは、生まれ持ってる気質によるところが大きいとのこと
これは20世紀の幸福学でも見出された知見で、ヒトの幸福の50%は遺伝で左右されるということでした
身の回りの環境や状況によらず、もともと生まれつき幸福度のベースが高い人が幸福。
一卵性双生児の研究でこの数値をはじきだしたようです。
あえて、後天的な努力で幸福になるためにはどうすればいいかというと、状態でいえば、
「苦痛がない状態で、しかも退屈していないこと」が幸福であるとショーペンハウアーはしていました
幸福感自体は、すぐに移ろいゆくもので、ゆるぎない幸福などというものはない
しかし、苦痛に関しては、持続的でリアルなものだし、幸福の獲得よりも苦痛の除去に目標を設定したほうが簡単ということで
そのように喝破しています
カルロスゴーンの事件がありました
お金はいくら手に入れても、金に対する渇望は人間からは取り除けない様子ですね
人間は、もっぱら「期待を満たすこと」でしか、幸福になれません
そして、一旦、幸福を手にしても、すぐに慣れてなんとも感じなくなり、さらに期待値が高まることによって
また不満になってしまいます。どんなに財を形成しても、立派な会社に勤めても、おなじことです
ショーペンハウアーは、人間が不幸にならないための最も重要な秘訣として
「幸福を夢見ないこと」であるとしていました。
幸福を夢見れば、期待値と現実のギャップが大きくなり、人間は、すぐに不満や不幸を感じてしまうとのことでした
1981年にハーバード大学で始まった幸福学の研究では
「インドのスラム街で人力車を引いている車夫と、アメリカの平均的なビジネスマンの幸福度が同等であった。」と報告されています
また、20世紀のアメリカで、宝くじ5000万円相当以上を当選した人、十数人の幸福度の追跡調査が行われましたが
当選直後は皆、幸せだったのが、半年後には、その幸福度は一般人と同等レベルにまで戻ってしまっていたようです
幸福は・・・哲学なのでしょうか、生物学なのでしょうか
例えば、太古の昔に木の実ひとつたべて、永続する至福を得ることができるリスが突然変異で誕生したとしましょう
そのリスは一回食事をしたっきり、もう二度と木の実を食べないで、すごく幸福で短い人生を終え、子孫は残さなかったでしょう
一方、競争相手の他のリスは、5分に1個木の実を欲しがり、食べることによって生き延び、その結果として交尾相手をみつけて遺伝子を後世に残したことでしょう
生物である以上は、貪欲なものが生き残る
ヒトの場合も同様らしく、実入りのいい仕事、器量よしの伴侶、大きな家、いくら手にしても、ずっと満足していられることは稀であると、ユダヤ人マクロ歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は言っていました
では、足るを知ることを心がければ幸せになるのか?感謝をすれば幸せになるのか?
足るを知ることを心がけても、それによって満ち足りた気分になるわけではなく、自分の願望や欲望をただ自分自身で抑圧しているだけな気がするし
感謝は心がけたからといって、常に心のうちからあふれ出てくるわけではありません
仏教などでは、感情は、心のうちに自然に湧き上がってくる情動というよりも、自分の意志でどうにかできる前提のようですが、
それはどうも、人間の進化過程を無視しているのではないかとさえ思えてしまうのです
んーーーーーーーーーーー
何をやっても、人間は、ダメなんでしょうか
揺るぎない幸福など、この世に存在しないのでしょうか?