地位財産名誉成功栄光栄華勝利による幸福というのはあくまで相対幸福であって

それ自体で独立して持続的に幸福感を得られるようなものでは決してないから

これらを持ってることがあたかも幸福であるかのようにマウントをとっている人自身が気が付いてないことも多いのだけれども、実際は、マウントや説教をすることそれ自体によって自分が幸せになろうとゴリ押ししているだけなのが真理なのかもしれない。でもあくまで自分は正当な存在であるとの立場で、マウントや説教を展開する。

マウントされた側には実際は何の落ち度もないところもある。

地位財産名誉成功栄光栄華勝利・・・何もそういうものがない人の何が悪いのかも、実際はよくわからない。落ち度というわけでもない。

そこで受け手が悔しくなって、対抗して、そいつよりもっと得ようとするのは・・・・果たして得策なのだろうか・・・・・決して得たことそれ自体によっては殆ど幸福にはつながらないのである。

永遠に争い続けるしかない。

だから資産数十兆円あるような人でも、いつまで経っても、大富豪同士で競争して、もっと増やそうとし続ける。

ステータス消費というのもそうだ、あれも消費することによって幸福になるというより、人よりもいい、こういう消費をしていますとか、人よりもいいこういうものを持っています、人よりもいいもん身に着けていますとか、それを見せびらかして、羨ましがられることによって初めて自分が幸せになろうとしている。

仕事の能力が高いというのも、ただそれでこき使われてぼろ雑巾にされているだけではむしろ不幸なことだから、能力が高いことそれ自体で独立して幸せなわけではなく、能力が相対的に人よりあることを誰かに評価されることによってその場の承認欲求が満たされて優越感を得て、さらにそれが相対幸福につながるような地位財産名誉成功栄光栄華勝利の報酬を得て、それを見せびらかした時や、マウントを取ることによってさらに幸せになろうというゴリ押しが促進する。

能力が低いことが悪いことなのかというと・・・能力は努力によって左右される割合はかなり少ないのだから、恐らく能力がないことでマウントや説教されるのも、実はよくわからないのかもしれない。

頑張れないことも悪いことなのかどうか、「やる気」や「集中力」に関しても、半分は遺伝子、半分は環境の影響によって形成されている。これに関しても、マウントや説教されるのも、実はよく分からない。

生活必要限度を得るのを超えた過剰な行動に関しては、何かしら、いろいろ出てくる。

自分に能力や素質があろうがなかろうが、誰かに評価されようがされまいが、給料が高かろうが低かろうが、やってること自体が楽しくて取り組みに没頭しているような人は、全く他人に対して嫌らしさとかは出たりしないし、やってますといったような不自然な嫌らしいPRとかも全くしない。

相対幸福の追求以外の要素で、何を動機に労働意欲を人間は引き出せるのか。

「仕事が楽しい」「誰かに認められたい」「誰かに喜ばれたい」「義務感」「使命感」

まぁ、相対幸福以外にも働く動機はいろいろあるけど。

相対幸福以外の動機でやっていたつもりでも、組織では「頭角を現してきやがった」なんて勝手に判断されて、全くうまくいかないケースもあるけど。

うーーーーーーーーーーーーーーーーーん。

まぁ、これ仕事のことだけじゃなくて、小学校低学年の頃から中学受験対策してる子供とか・・・そういう存在も気になるんだけど。

なんだろう。

今は、共産主義はダサいということになっているし、まぁ、共産主義なんかは、相対貧困はなくても、全体が地盤沈下して餓死者が沢山出るような絶対貧困の問題が出てくるから・・・・それも結局よくわからないし。しかも「赤い貴族」と呼ばれる特権階級もいるし。あと共産主義政権下でもやっぱり、時間経過と共に貧富の格差は拡大するから、確か、中国も日本も今はジニ係数同じくらいになってたと思う。

平等が正しいという人もいるけど、餓死者がいっぱい出るなら、頑張る人も、頑張らない人も、みんな平等にするのが正しいのかどうかも分からない。

まぁ、何やっても、やっぱり、どうしようもないのだろうか。

何が絶対に正しいっていうのも、たぶんないのかもしれない。

マウントに関しては、参考文献はまだ読んだことないけど、詳しく調べて研究してみるべきかな。

世の中、何が正しいことか、ぼんやり分かってきた

自己責任という前提の社会においては
 

「それぞれ自分にとって、納得のいく価値観や判断や行動が、それぞれの存在にとって正しい。」


たぶんこれ、ある程度、一般化できる真理

うーーーーーーーーーーーん。

企業組織の成長には、実力主義や能力主義が必要なケースもあるのかもしれないけど

政治体制の安定にとっては、恐らくそれとは違うところもあるのかもしれない

企業組織の実力主義や能力主義による負の側面を

政治体制がしっかりカバーしたりできないと、大変なことになりえる・・・・。

どうなってるんだろうな・・・・・・・・・・・・。

社会を安定化させるには、むしろ速度を緩めなきゃいけないのかもしれないけど

強い焦りや不安によって生存競争が加速化されると、より不安定化するのだろうか。

努力ど根性して生存競争すると、

世の中で財やサービスの消費量が・・・増えるということにもなるのか。

老後が不安になると、まず、お金は貯めこまれるし。

能力主義による生存競争の加速で格差が拡大しても、

社会全体の購買力は少しずつ低下していくし。

市場原理によっては淘汰されないような会社が、

企業の論理よりも政治的な統治で安定した秩序を維持しようとする性格がでる意味が分かってきた気がする

勘違いした管理者が、過激な競争や成長を煽っても、会社全体としては別のホンネで動いてる気もした

実力主義や能力主義にしないと企業組織は競争原理で淘汰されるかというと

各業界によって特性は違うところあるかもしれないけど

日本の会社は、大きな改革を断行して、成果報酬などに仕組みを変えても、

殆ど企業業績が変化してないケースもあるみたいだったけど

能力のある人は給料をもらえて頑張って生産するけど

能力のない人は少ない給料に甘んじることで、

完全に頑張らなくなることが正当化されてもっと生産性が下がるとか

その辺どうなってるのか俺もよくわからないけど

実力主義や能力主義のアメリカも、最近、どうなってるかよくわからないけど

アメリカが技術革新を起こすことは多いし、

AI革命は確かに引き起こしたし、巨大グローバル企業にはアメリカ企業は確かに多い

ただ、内政の状況が今は滅茶苦茶に混乱して崩壊しつつある。

極端な実力主義や能力主義は、企業は成長しても、

どうやら政治や社会は不安定化して混乱を引き起こしてるようにも思える。

なんなんだろうな。

崩壊がすぐ傍まで迫ってきている国の、企業統治を参考にするのもよくわからない感じするけど。

企業が国境を越えていくら成長しても・・・・・・・・・

多くの人は、自分が住んでいるのはあくまで国内だから、

自分の会社は潰れない範囲である程度の給料さえ出してくれれば、

あとは会社の成長や発展よりも、国内政治を安定化させて欲しい人も多いかもしれない

アメリカはグローバルに活躍する大企業がいっぱいあって、経済成長率もある程度保っているけれども

そういう国でも、国家の財政状態はどんどん悪化していく一方なようだけど

これだと、日本も、経済成長したからといって、国の財政問題には殆ど影響しないかもしれない

つまり国家体制の危機が解決するわけではないところがある

で、経済成長というのは、国民の幸福とも強くは関連していないし

また経済成長して国民の給与が倍になっても、物価もほぼそれに連動して倍になるから

必死に頑張って経済成長しても国民生活が楽になるわけでもなんでもないのは

まぁ、通貨安の旅行先の日本では羽振りのいいアメリカ人も、

自国内での生活実感は全然豊かに感じていないようだ

やっぱりアメリカ人も生活は大変だ

ほんと、日本という国も、そもそも何を求めてどうするのがいいのか、そこすら実は見えてないのかも

とりあえずスローガンだけは、いろいろもっともらしいことが言われているけど

能力はあるほどいいとか、ある人がない人にマウントしたりとかして、

自分たちは正しいみたいな感じだし

お金は持ってれば持ってるほど幸せであるかのように、ある人がない人にマウントしてたり

経済成長はした方がいいとか、そのための政策をどうするかとか言ってるし

よく状況が見えないよなぁ

最近の学歴生存競争の加速化も、よく意味が分からない状況だよなぁ

不安の強い格差社会だから自分の子供を一部の高給取りのエリートにして

出来るだけ生存して欲しい・・・

ということなのかもしれないけど

頑張ってもみんながそんな存在になれるわけでもなんでもないからねぇ

で、社会不安や体制不安から来るような巨大な流れに対しては、

子供がどんな仕事についても、

相変わらず不安の解消にはちっとも繋がらないはずだし

でも、教育費だけはドンドン高騰していく

親が不安に駆られてどんどんお金をつぎ込んで子供に熱のこもったレースを強引にさせる

都市部を中心にして落ち着いた環境でゆっくり子供を育てるっていうのは、

もう、韓国でも中国でも完全にできなくなっていて

みんな結婚しなくなってきているようだ

社会不安とか体制不安に対しては、

ちょっとお金稼げたくらいでは、不安な人は全然不安なままで、

それで安心して結婚しようなんて思わないだろうしねぇ

で、子育て世代はなんなのかというと、とりあえずお金が足らないとかいうことだから、

ばら撒くというわけだけど、

それによって社会不安や体制不安の解消に繋がるかと言うと、いやもっと不安になるし

社会不安や体制不安があるから、

そういう状況の中で、お金がかかるようになった不安な子育てをしたくない、という人に

お金に困ってるんだったら、ばら撒くから結婚して欲しいなんて言われて、

安心して従う人間なんかいるのだろうか

自分のお金なんか少なくても、社会や体制が安定していて、

子供はどんな仕事に従事しても、大丈夫な社会だと信頼できれば俺は結婚してたと思う

あるいは社会に文句たれる前に、

個人的に、社会不安や体制不安に対して投資で対策していたわけだけれども

自分だけ生き残ろうとすることはいけないことだと世間に指摘されて、

それを辞めたことで、梯子が外されてしまった結果として、結婚や子育てをできなくなったわけだから

結婚しない人がなんかフリーライダーでずるいというわけでもないだろうし

個人がそれぞれに固有の感性に基づいて、

自分の責任でしっかり家族を保障できると判断できるだけの要素がなかったということについては

悪いことでもなんでもないと思うよね

ただ、そうだったというだけのことだし

仕事の能力がない、仕事に対して意欲が持てない、頑張らない、結婚しない、酒ばっかり飲んでる

なぜそのようなことになっているのか・・・・・・・・

自分が個人的にどのようにして生きても、

もはや希望や展望や見通しが全く描けるとは判断できなかった流れで、

そのような結果に個人的に行きついた

まぁ、あとは自分に出来ることは、死ぬまで生きることだね

どうするのが正しいかとか、その人の立場や状況によってみんな違うのだろうけど

「仕事は高い能力を磨くのが正しい」と言ってる人は、

それによって利益を得る立場の人とか、能力向上に取り組んでいる自分を肯定したい人にとっては確かにそれは正しい

「お金はあればあるほどいい」と言っている人は

お金の力を信じている人や、持ってる自分を肯定したい人にとっては確かにそれは正しい

「結婚してこそ男は一人前!」と言ってる人は

既に結婚している男が自分を一人前であると自分を肯定したい人にとってはそう思うかもしれない

「女の幸せは結婚」と言っている人は

既に結婚した女性が自分を幸せであると自己洗脳をかけたい人は確かにそうなのかもしれない

今の段階で、こういう理想や理念が正しいから、それに従いなさいとかいうことになっても

いや、自分の立場や状況においては、自分にとってはその選択肢は正しくないと、

考えたらそういうことでしかないともう認識できないからなぁ

人はこうあるべきだとか、人はこうすれば一人前だとか・・・・

それだけで、納得して行動できるような感じはもうしない

それぞれ自分にとって納得のいく価値観や判断や行動が、それぞれにとって正しい

「親や教師・・・あるいは周囲の人の言う事を良く聴く。」

これいいことのように言われているけど

それでも

「真に受ける」とか「鵜呑みにする」とか「何も疑問を持たないでそのまま信用して従う」とか

それはいいことなのかどうか・・・・・・・・・・・・

自分はそうしたことによって、病気して、命すら落としそうになったわけだけれども

そういう経験によって「人の話しを聴かない能力を高める訓練」をしていると

それはそれでまた、上目線からまことしやかに

「今のお前は人の話しが聴ける状態でない」

などと説教する人もいる。

まぁ、どこかで誰かが言っている全て一般化したようなスローガンとか

そういうのもそのまま聞いては絶対にダメだよね

「人一般全員の話しを全て聴いてそれに従う」なんてこと何があっても絶対にしてはいけないと思うし

人の話は参考程度に聞いて、最終判断は自分で下さなきゃいけない。

いや、誰かの言われた通りにそのまま従って、

その人が自分の発言に責任を負っていかなる結果に繋がろうと最後まで保障するならともかく

そんなことまず誰もしないわけだから

ほんと世間との距離感とか対峙の仕方間違うと、人生に破壊的な影響をもたらすから

物事の道理からして

過激な悪戦苦闘努力によって生存競争をして勝ち抜いて立派な肩書や経歴を得たような人が

そんなに弱者に対して優しい人間性を保っていることができるのかというと

どうなんだろう・・・・・・・・・・・・・・・

いや、すごい必死に努力して「持てる側になった」ということだと

それで自己肯定感を得るには、やっぱり持てない側よりも頑張った証拠だ、なんてことになるよね

どうしても

「お前らも必死に自助努力しろ」・・・的な流れにしかならないのではないだろうか

でも実際は、人間の能力は、運や偶然で形成される要素が非常に大きかったようだけど

まだそこは一般的に広くは認知されていないようである

遺伝子や環境などが織りなす運や偶然であって、競争条件を同じにして努力しても、公正であるとはいえないということになると

能力主義社会における過度の賃金格差や待遇格差の正当性などにも恐らく疑問符がつくし

運や偶然で決まるものであれば「強い者は弱い者に手を差し伸べるべき一定の責任」は生じることにもなりえるから

立場の差は努力の差だということで、勝ったから偉いとかで、

ただマウントしてればいい時代ではなくなってきているのかもしれない

本当にそうなりえるだろうか・・・・・・・・・・・・・・・

まぁ、社会秩序が維持できる程度の最低限の保障・・・・・・これは絶対に大事だとは自分も思うけど

それすら保障するのも、社会のお荷物だという考え方をする人もいる

まぁ、そういう人は、自分がずっと強者の側の前提で考えているのかもしれないというのもあるし

生存権すら保障できなくなったら、

体制や社会秩序が崩壊するということまで考えてないのかもしれないし

まぁ、ホロコーストみたいなのが起きて金持ちが殺されて金品を奪われるみたいなことがあるのも

わかっていて言っているのかどうか

大企業のエリートサラリーマンでも突然病気したり交通事故に遭ったりして

作業所などの福祉を利用したり、生活保護を受けることになる可能性がゼロなのかというと

そんなこと分からないわけだけど

うーーーーーーーーーーーーーん

持病があって作業所でしか働けない人に、健常人の自分らはあなたの10倍働いてるから、、、、、

ということでマウント取る意味は、最近の自分には、やっぱりよく理解できなくなっているけど

若い頃、自分が強引な生存競争ばかり強いられていた時期は、

まぁ、そういうのにも共鳴してたかもしれないけど

うーーーーーーーーーーーーーん

みんな立場や状況によって、いろいろ認識には違いがあるのかもしれないけど

やっぱりその人の能力や実績というよりも、

努力しすぎて強い苦痛を受けている人とかは・・・あまり落ち着いた考えは持てないのかもしれない

頑張りすぎるって、ほんと褒められたことなのかどうかも今ではよく分からないけど

絶望感の中、殺人的な努力とか求められて実行して結果が出た人とか・・・・・・・・

どこか人間性に破壊的な影響出てることあるのかもしれない

自分も、もともとそんなに能力が高いわけでもないのに、

そんな強引な無理な努力をしないと、ほんと乗り越えられないようなことしちゃったから

まぁ、他人に与えられた目標をそのまま達成しようとくそ真面目に本気になって実行するのもどうなのか

自分の能力や限界などを勘案して、ある程度、ほどほどに取り組んで得られる目標を自分で設定するのも

大切といえば大切なのかもしれない

能力主義とかハイクラス転職とか・・・ほんとなんなんだろう・・・・・・・

実際は、大部分の人が、普通の仕事をする平凡な社員として生きることになってるし

わざわざ引き抜いてきたような人材を使ってるという仕事も、全然、身近に見ないけど

最初の長は、なんかスローガンだけは、

会社を踏み台にしてどんどん追い付け追い越せで切磋琢磨し、常に努力して常に成長して、

どんどんステップアップしていけ、ステップアップの転職しか認めない!

みたいなこと言っていたけど、冷静に考えてみて、この仕事のこの役割で、

わざわざ引き抜いてきた人材を使っている会社は恐らくその辺にはないだろうと思う

それぞれ自社で育成しても別に誰でもできる平凡な業務内容でしかないからなぁ

なんなんだろう・・・・・・・・・・・・・・・

能力主義社会がやたらと誇張されて、ハイクラス転職ばかりが脚光を浴びる世の中における・・・・・
若手の働き方とか・・・・ちょっと一定の傾向出てくる可能性あるよねぇ・・・・・・・・・
どこでも通用するような立派な能力だけを磨きたがって、
そういう仕事で研鑽できないと、不安になってすぐ会社をやめちゃうとか
実際のところ、組織には、その会社のその場所にしかない仕事も結構あって、
それも誰かがやらなきゃいけない、それに取り組むのも成長のためには必要なことだけど
ハイクラス転職につながらないような仕事は自分の成長には関係ないみたいな価値観にもなりえる
全員がハイクラス転職の主役を目指した組織なんて、組織として成立しない可能性もあるけど
だから、たまたまの運や偶然なんだよね・・・
自分がハイクラス転職できるような立場になったかどうかとか
自分の意思や努力で自己研鑽さえすれば、ハイクラスの人材になれるかというと
たまたま偶然どういう会社でどういう役割を担うことになったかとか、そういうのにも大きく左右される
あとその会社組織の人材の運用の仕方とかにもよるし
頻繁に人事異動があって、誰もがゼネラリストとして何でも屋をするような運用の仕方をする
会社が日本の伝統的企業では多いけど
もともとスペシャリストを育成するような組織の運用の仕方をしていないとか
アメリカみたいに各職種ごとにある程度仕事が固定され、
スペシャリストを育成するために、さらにステップアップのラダーがあらかじめ用意されているということは、日本の伝統企業ではあまりないようだから
日本の伝統的企業では、変に野心を燃やして、不自然な成長をしようとしているような人は、かえって組織になじめないところもある。平凡なふつーの、波風立てないような、存在の方が、むしろ好まれてる気がするけど。職種にもよるかもしれないけど。もともと相互に引き抜いてきた人材を使ってるような職種ならともかく、普通の仕事を仕事をしてるだけの立場になる人の方が多いだろうから。
 

能力主義社会で無能を指摘されても、動じない心が大切かもしれない

人間の能力は、一般的に

半分くらいは遺伝子、4割くらいは環境、1割くらいが意思や努力・・・こういったものが

複雑に相互作用・交互作用を繰り返しながら、さまざまな運や偶然の結果として形成されてくるところがある

有能か無能かは、殆ど、運や偶然の産物でしかないので、

無能を指摘されたからといって、だから何だという話でしかないんだよね

ガチャ成功した人はよかったですね、ってだけで

無能な人は評価できませんから、それ相応の立場で、それ相応の賃金で、それなりにやってください

ということになっても、まぁ、ハイ分かりました、それだけのことでもあるし

基本的には、落ち着いた暮らしが安定的に成立していれば、それ以上、どれだけ虚栄を追求しても

人間の感覚的な快感や苦痛のレベルは、殆ど変わらないので

一方で、どれだけ地位や収入が多くても、過度のストレスやプレッシャーがかかるような状態になれば

立場とか収入に全く関係なく、かなり不幸な状態であるから

別に、誰かがマウントしてきたり、惨めさや劣等感を植え付けようとしたりしてきても、

自分が真に受けずに淡々と暮らせていれば、何も問題はない

無能を恥じない堂々とした態度

基本的には能力主義社会がどれだけ加速して、厳格な職業ヒエラルキー社会が促進していっても・・・・

ごく一部の人は、たまたまの運や偶然によって、その世界で輝かしい存在になることもあるだろうけど

そういう社会であっても、大部分の人は日陰の存在として生きて、社会システムを支えることになる

それだと、そういう社会においてそれでも一部の成功者になるべく過激に自分をすり減らしながら戦い続けるか

あるいは状況に応じて自分の認識や価値観を調整して、能力主義社会で能力を評価されなかったとしても、みじめな思いを感じずに、快適に生きていけるような内面的価値を自分で生み出すか・・・・・

そういうことになってくるけど、

まぁ、自分の能力をどれだけ磨き上げても、それに対する社会的評価というのは地位財産名誉成功栄光栄華勝利というもので帰ってくるしかないわけだけれども、それ自体いくら得続けても、人間の感性ではドーパミンによる一過性の快楽を得たのち、すぐ消失してもとの状態に戻るようなものでしかないから

ある程度、落ち着いた生活さえ成り立ってれば、一部の優秀な能力者になんかならなくても、全然、日陰の存在であっても、普通に生きていけるからね・・・・いや、そういう人の生存権が脅かされるほどにまで社会の格差が広がってしまったら、内戦発生の危機にあるような今のアメリカのように、デモや暴動や略奪が頻繁に起きるような社会を経て、もう体制崩壊するしかないだろうし、そうなったら、自分だけでなく能力のある人や金持ちも、同じようにもう関係なくみんな不幸なわけだから。

父親の考え方は、

子どもがみじめな思いをしないためには

子供自身が能力主義社会を努力によって鍛えぬいて乗り越えて

他者と比較して相対的に優位な力を付けることが大切だと考えていたようだけど

今の自分はそれはかなり不適切な対処法な気がするんだよなぁ

基本的に個人の能力形成を左右するのは、半分くらいは遺伝子などの初期値によって左右されるし

あと残りの4割くらいは環境なと本人の意思によってコントロールしにくいもので左右され

まぁ、1割くらいを左右する本人の意思や努力ですら、遺伝子と環境の影響を受けている

というと、努力によって他人より相対的に優位になろうと頑張れば頑張るほど

絶望的な壁とかによって、余計に、深刻なコンプレックスなどにハマって行ったりする可能性があるし

あるいは殆ど運や偶然によって決まってることに関して、

極端に力のこもった生存競争などを展開すると、

自分以下に対する見下した態度や、自分以上に対する劣等感や嫉妬や羨望が強化され

見下された他人には、自分がみじめさを植え付けてしまうことになる

子どもがみじめな思いをしないような適切な対処というと、他人と争って勝つことよりも

適切な教養を身に着けることなのではないかという気がするけど

人間の感受性メカニズムについて学ぶ

人間に、みじめさを発生させる主な要因は地位財産名誉成功栄光栄華勝利などの相対幸福を巡る物事だけれども

これというのは初めから他人との比較優劣の中でしか、幸・不幸をあまり認識することはないものである、ということであって

こういうものを仮に多く持っていなかったとしても、

落ち着いた日常生活が成立するレベルのものが手に入っていれば、

それ以上、いくら沢山手に入れても、もう感覚的な幸福感には殆ど影響することはないものであることを

エビデンスや教養に基づいて正しく理解することが大切なのだと思う

まぁ、その程度のものでしかないということを教養で理解して自らの価値観を養えば、

自分より相手が多いか少ないかといったことに極度に固執して、みじめな気分になることもなくなる

自分も若い頃・・・東京に来たばかりの頃は、まぁ、タワーマンションの下を歩くだけで少し惨めな気持ちになることがあったけど、今はそういう感覚は全く生じなくなった

いや、年収1兆円の大富豪だろうが、年収8万円のアフリカのマサイ族だろうが、普段の日常生活は、ほぼほぼ生まれ持った生化学的な幸福度の設定点のまま生きていて、どれだけ頑張って富をかき集めたからといって、それによって、本当に心理効果として絶大な何かが手に入るといったことも全くないので

むしろそういうものを必要以上に無理して頑張って過度にかき集めているような人は、かえって不幸なのではないか・・・・とも思えるようになってくれば

無駄に力のこもった努力ど根性によって誰かと競争して、無駄にみじめな思いをしたりすることもなくなるのではないかということだよね

で、基本的に教養を得て物事の認識の仕方を変えるとか、価値観を養うといった行動に関しては、特別これといった能力が必要なわけではないので、遺伝子や環境によって大きく左右されるような運や偶然の要素が大きい能力主義などというものによって、あれこれ振り回されずに、みじめさといったことに対して、ある程度、適切なコントロールが可能になるのではないかという気が今はする