「ゴッドハンド」(神の手)と呼ばれた脳神経外科医の福島孝徳さんが死去したことが、福島さんの公式サイトで発表された。81歳。福島さんは脳腫瘍などを開頭せずに数センチの穴から摘出する「鍵穴手術」を開発し、驚異的なペースで手術を行う一方、明治神宮宮司の二男として、白足袋を履いて手術に臨んだことで知られる。多くの患者の命を救いながら、日本人の精神を最後まで大切に守り続けた。

 

【写真】明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする明治神宮

 

「私は土日も手術、夏休みも正月休みも一切とらない。手術前は、『一生懸命やりますから助けてください』と神様にお祈りします。世のため人のために朝から晩まで働いていれば、必ず神様が見ていて助けてくれる。明治神宮の神様は、心のよりどころであり、支えです」

 

平成19年の取材で、福島さんは記者にそう語り、白足袋を身に着けて、手術室へと向かった。

 

「白足袋を履くのは機能性ばかりじゃない。お能の舞台に上がるように、心を引き締めるためです。脳外科は、医者の技術一つで患者さんが元気に家に帰れるか、車椅子の生活になるか、まひが残るかが紙一重で決まるんですから」

 

日本の医学界では異端児とされ、活動拠点を米国に移さざるを得なかった福島さんだが、根底には日本の精神が根を張っていた。

 

父の福島信義さんは、明治神宮宮司のほかに明治記念館の館長も20年以上務めるなど、「明治神宮を復興し、その運営を成り立たせることに一生をささげた」(孝徳さん)人だった。先の大戦末期の昭和20年4月14日未明、明治神宮が米軍のB29の空襲を受けて境内が炎上した際には、御祭神の明治天皇と昭憲皇太后の御霊代を、炎に近い宝庫から安全な宝物殿に遷すことを宮司に進言。焼け落ちる境内で「奉遷の儀」を執り行い、御霊代を守った神職の一人でもあった。

 

 

「明治神宮戦災記録」などに残るそうした仕事を、信義さんは息子に語って聞かせることはほとんどなかったという。戦後は空襲で焼失した明治神宮社殿の復興に、復興奉賛会事務局長などの立場で尽力した。

 

孝徳さんは死去の約4年前となった令和2年の2度目の取材で、昭和33年10月31日の本殿遷座祭遷御の儀で、御霊代を復興を遂げた新しい本殿へ遷す父親の記憶を記者に語った。当時は16歳の少年だった。

 

「ちょうどいい星空でした。赤い装束の皆さん(神職)が、暗闇の中で、仮殿から本殿へ御霊代を遷すのが見えるんです。父がどこにいるかは、すぐに分かりましたよ。背が高かったので」「明治神宮への奉仕を最優先し、家庭を後回しにする父親でしたが、遷御の儀は素晴らしかった。父の偉大さを感じました」

 

2度目の取材テーマは手術ではなく明治神宮だったが、孝徳さんは話し終えた後、当時仕事場としていた病院で脳神経外科手術のための最新設備を記者に紹介し、患者の命を救うための設備投資の重要性を説いた。手術に向き合う真摯な姿勢は、いささかも揺らいでいなかった。患者を救うことに力を尽くした生涯だった。(鵜野光博)