原田ファミリー ・ エッセイの部屋

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80歳を過ぎてなお、日々パソコンに向かい

株式相場を楽しんでおります。


親の代(戦前)より続けている

株取引の話、家族や日々の話など。



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都市部の6割で公図とズレ

 

 国交省は、土地売買などに隣地との境界を確認する参考地図として使う登記所の「公図」について、都市部の約6割で実際の境界とは1メートル以上の大きなズレがある事を公表しました。

 

 現在の公図は、明治時代の図面をそのまま使っているケースが多く、こうしたズレは土地売買トラブルにつながることも有り、課税上(固定資産税、相続税等)の問題にもなります。
そこで国交省は、境界を正確に測り直して確定する作業を早急に進めるよう、全国の市町村に要請しました。

 

 公図とは登記所に備え付けられた「地図に準ずる図面」のことで、土地の大まかな位置や形状を示すものです。また、公図の多くは明治時代の地租改正に伴い作成されたもので、法律上の効力はありませんが、不動産取引の際の参考資料として使われたり、訴訟で有効な証拠資料になったりすることもあります。

 


「確定測量」実施が望ましい

 

 境界には、公図上の境界(筆界)、私法上の境界(所有権界)、そして、現況上の境界があり、この三者が一致すれば紛争は生じませんが、境界を巡って地権者の利害が絡むのでなかなか厳しいものがあります。

 

 境界確認が得られるかどうかによって、その不動産の価値に大きな違いが出てきてしまいますので、境界確定測量(地積測量)は重要です。

 

 とくに、物納の際など申請時(申告時)には、基本的な物納手続関係書類(登記事項証明書、地積測量図、境界線に関する確認書等)が準備されている事が前提ですから、そのためにも生前から宅地などは確定測量を実施しておくことが望ましいと言えるのです。

 

 

【 税金ダブルブルフォーカス vol,74 より転載 】

 

                                  原田 美貴夫

 


国家総動員

 

戦後生まれの人には理解しがたい事だとは思うが、戦前には国民の義務として兵役があり、徴兵制度が確立していた。一旦召集令状が発令された以上は、これを拒む事は不可能であった。


更に軍属制度が古くからあり、軍の必要に応じて土木作業員、運送要員、従軍看護婦等は何時でも強制徴用する権限が軍にはあった。但し実務面では、契約制が採用されていた。

支那事変の拡大するにつれて、軍部は国家総動員体制を固めた。それに伴い、昭和14年に国民徴用令が施行された。これは国民に対して軍需工場への強制就職を命ずる法令であった。

戦死した兄も、開戦前の昭和16年10月に徴用されて、熱田の陸軍工廠に強制就職を命ぜられた。そして入所したら即日「軍属ヲ命ズ」であった。

今では形見となった兄の工員手帳によれば、軍属読法として

 

一、長上ニ敬礼ヲ尽シ・・・。

一、長上ノ命令ハ其ノ事ノ如何ヲ問ハズ直チニ服従スベキ事。

 

とあり、右条項及び他の法律規則等に違反したる者には、陸軍刑法(軍法会議)により重く処罰される旨が明記してある。

 

昭和18年中頃になって戦局が厳しくなると、学徒出陣、学徒勤労隊、女子挺身隊、一般社会人に対しても、徴用適用年齢が拡大されて、兵隊失格の男子の大部分が軍需工場へ強制就職させられた。

そのうえ極めつけは、鉄砲玉(銃弾)や兵器を作るためと言って、金属回収運動が始まった事だった。

全国の寺院仏閣に対して、梵鐘(つり鐘)及びロウソク立て、花立て、その他金属製品の供出を求められた。

当時の軍隊では、兵隊サンの命よりも鉄砲の方が大切に扱われていたように、各寺院にとっても梵鐘その他仏具は仏様の次に大切な道具だった。拒めば国賊扱いは必定である。ずい分複雑な気持ちで献納された事と思う。梵鐘などは今買うとすれば何百万円、中には千万円以上の物も有ったと聞く。

 

一般家庭に対しても同様であった。どこの家でも「すべてお国のため」と思って、仏壇の中のロウソク立て、花立て等を献納した。

当時忠魂社(新川神社)にも楠木正成の銅像があったが、これも取りこわして供出された。

やがて、小学校の校庭に集められた梵鐘・花立て・ロウソク立ての山を見て「こんな事をしていて良いのだろうか、仏様のバチは当たらないだろうか。」また「これで鉄砲玉を作ったとしても、その後は何を材料にして作るのだろうか。これで戦争にホントに勝てるのか?」と、子供心ながらも心配になった。

しかし学校の先生も家の父も「日本は神様の国だから絶対に勝つ」とは言うが?・・・・・。

当時ラジオから流れる戦時歌謡では、

 


    ♪   咲いた花なら 散るのは覚悟
          みごと散りましょ 国のため

          上野駅から 九段まで・・・

          杖をたよりに 一日がかり・・・

          こんな立派な おやしろに

          神と祀られ、もったいなさよ


 

と死を美化して、讃えるような悲壮感の強調されたものが多かった。人も、物も、歌も、総てが、国家総動員であった。

 

 


兄の出征

 

昭和17年12月、当然の事ながら兄にも召集令状が来た。

寅年生まれの姉は早速、兄の無事を願って同級生や知人に頼んで、千人針を縫い始めた。

 

 

 

出征の3日くらい前の夜の事。兄は「美貴夫、洋食を食べに行こう」と言って、銀座通りにあったオオギ屋食堂へ連れて行ってくれた。そこで生まれて初めて「ビフテキ」なる物を食べた。これはうまかった。何しろその後2回目に食べたのは、戦後の昭和25年か26年頃だったから、当時としてはかなりの御馳走であった。

 

出征前夜、親類の人たちと兄の友人3人が家に集まって送別会が開かれた。兄の友達もいずれ近いうちに出征の身であったが、みんな夜遅くまで陽気に飲んで歌っていた。

 

一夜明けて出征当日、神社での壮行式で兄は「国家の干城として・・・・・生還を期しません」と動ずる事なく、大きな声で挨拶をしたが、その時わたしは兄が本当に戦死するとは思えなかった。

 

神社での式が終わると、忠魂社で新川町合同の式があって、それから新川町駅から電車に乗って出発である。その日は出征兵士が15人位あったので、ホームは見送りの人でいっぱい。その人達が皆手に手に日の丸の旗を振って、バンザイ、バンザイで見送った。ホームは人の波、旗の波、歓呼の声でどよめいていた。はた目には壮観であったが、送られる者の心情や如何に・・・。

 

発車間際、兄は窓から身を乗り出して、僕の手を強く握りしめて、

「美貴夫、元気でナー」

「兄ヤンもナー」

後には言葉は無く、さすがに別れはつらかった。

 

この日、父母はその電車に乗って名古屋まで送って行った。

 

 

 

軍事郵便

 

年が明けて昭和18年初頭になって、満州の海城から兄の軍事郵便が届いた。筆まめな姉はすぐに返事を書いた。その後も月に一度くらいずつ軍事郵便が来た。僕も時には手紙を書いた。

この兄とは異母兄弟であった。兄の母は早く亡くなったので、兄は母の実家で祖母の手で小学校6年生まで育てられたとの事。

 

ある時、この祖母と一緒に写した写真を送った。少し日が経ってから「祖母との写真が届いた。うれしかった。」との返事が来た。

この写真を兄は最後まで持っていてくれたと思って、僕は後に名古屋で空襲を受けるようになってからは、兄の写真の代わりにこの軍事郵便のハガキを手帳にはさんで、何時でも持っていた。このハガキは形見として、今でも仏壇に収納してある。

その当時では一般にはカメラなど全然無くて、写真といえば写真屋で写してもらうのだが、これがかなり高価のため簡単には写せなかった。

 

昭和19年の2月か3月頃「新学期始まっただろ、もうすぐ卒業だな」との手紙が最後となって、後は途絶えたので、南方の戦場へ向かったものと思っていた。

 

 

 

飛行機工場に幻滅

 

昭和19年4月、私は就職せずに家業に従事したいと考えたが、それは時局がら許されなかった。それならば飛行機工場が良いと思って、当時ゼロ戦を製作していた三菱重工の名古屋航空機製作所へ入所した。


その頃は、軍事工場で働く若者は産業戦士と呼ばれて、新聞・雑誌・ニュース映画等でカッコ良く扱われていた。

ところが、世の中聞くと見るとは大違い。

飛行機工場の規律は厳しかった。特に寮生活、社内の青年学校、中でも実習工場はズバヌケテ厳しかった。

「何がお国のためだ」

反感と共に、飛行機工場への幻滅を感じた。

(この時、兄が体験したであろう陸軍工廠での苦労。初年兵で満州へ渡ってからの苦労が身にしみて分かった。)

 

最初に見学した組立工場では、何と兵隊さんが大勢作業してみえた。「俺たち鉄砲が無いから飛行機作りよ」と気楽そうだった。

 

一方で勤労学徒、女子挺身隊、年配の徴用工、更に朝鮮半島から徴用された人達が、黙々と作業に従事していた。

その間を軍から派遣された監督将校が、木刀を手にして巡回していた。

驚いた事に、社内には憲兵隊詰所があって、そこには常時10人位の憲兵が常駐していた。完全に戦時体制である事を実感した。この詰所の前はなるべく避けて通った。

これはエライ所へ来てしまったと後悔したが、後の祭であった。その時すでに職場徴用されてしまって、軍需省に徴用工登録の手続済となっていた。「モウヤメタ」とは言えない状態であった。

 

それでも、不幸中の幸いだった事は、職種希望を聞かれた時に、現場作業には耐えられないと思ったので、製図工を希望したら治工具設計ながらも、製図工に採用された事だった。その時思わず心の中で「助かった」と叫んだ。

配属された作業計画課にも監督将校は3名いて、それぞれが課長、係長の横に机を並べていた。

 

その年の11月の終頃、神風特攻隊の隊員より贈られた、日の丸の横に神風と染めぬいた手ぬぐいが配られた。

この時、兵隊帰りの久野班長が

「原田君ヨウ、少年兵なんか絶対に志願などするなよ。軍隊なんか上(将校)は良いけど、下(兵隊)は地獄だ。名誉の戦死と言うのは勝ち戦の時だけの話だ。負け戦ではどんな立派な死に方をしても、所詮は犬死にだ。」と、しみじみ話してくれた。

 

 


地震と空襲

 

昭和19年12月7日午後1時35分頃、東南海地震が発生した。

名古屋南部工業地帯は、何しろ埋立地を造成した土地の上に工場が建設されていたので、被害は大きかった。 私の勤めていた三菱重工、大江工場でも日清紡から接収した古いレンガ造りと、 新しく急造された木造組立工場の大部分が倒壊した。戦時中の事とて、被害は公表されなかったが、特に女子挺身隊(若い未婚女性を強制徴用した団体)の人達に大勢の死傷者が出た。壊れなかった鉄骨工場でも、地盤が軟弱なため振動が大きく、 組立中の飛行機は全部ガタガタになってしまった。

 

地震に続いて12月13日午後1時半頃、名古屋に初めての空襲警報が発令された。 新開発されたばかりの米軍爆撃機『スーパーフォートレス(超空の要塞)』と呼ばれたボーイングB29八十機による名古屋空襲が始まった。 これを迎え撃つ我が方の戦闘機は無きに等しく、しかも性能、装備ともに劣悪であった。 高射砲(対空砲)の射程高度も8000メートルそこそこで到底勝負にならなかった。

それにも関わらず、当時の日本人は軍部によって徹底的に洗脳されていた。 陽気に

『♪天皇陛下のためならば なんで命が惜しかろう・・・』

などと、声高らかに歌っていたのだ。 数年前、世間を騒がせたオウムの信者以上にマインドコントロールされていたのだから情けない。 新聞、ラジオは厳しい検閲制度により、情報操作されていたので、国民の大多数が 『神の国、日本が負ける』などとは夢にも思っていなかった。

 

B29の爆撃は正確であった。初めて来襲した名古屋で、 飛行機のエンジンを作っていた三菱大曽根工場を、しかも一万メートルの上空から確実に空襲した。この日、私達の設計課では退避命令は出なかった。遠くでドッドッー、ドカッ、ドカッーと、 花火を打ち上げるような音が断続的に続いた。気がかりではあったが軍部から派遣された監督将校の手前、皆製図板に向かってはいたが製図には 集中できず困っていた。しかし、恐怖感は全く生じなかった。

 

続いて2回目が12月18日、昼の休憩時間の終り頃、またも空襲警報のサイレンが鳴り響いた。 結局この日、私のいた飛行機の組立工場である三菱大江工場が狙われた。なにしろ空襲の体験が 無いのだから「知らぬが仏」で、誰も怖いと言うことを知らなかった。今回は黙認されて、 皆二階の窓から首を出して、空を見上げていたが何も見えなかった。

 

やや時間がたってから、誰かが「敵機ダッ、タイヒー、タイヒ」と叫んで走り出したので、 皆急いで窓の横に作ってあった緊急退避用の滑り台を滑って降りた。 防空壕へ飛び込んでガヤガヤ話していたら、突然 ドッ、ドーッ、バリッ バリッ と、 ものすごく大きな音が続いた。

やがて音が止んで静かになったので、外へ出て見て驚いた。一瞬我が目を疑った。

「何たることだ」

隣の機械工場の外壁のスレートが全部吹き飛んで鉄骨ムキ出しで、中の大型プレスが丸見えではないか!!。「爆弾が落ちたのだ」と気づくのに少し時間がかかった。

 

 数ある現場工場の中には、戦争を知らない監督将校が退避を許さなかったこともあって、この日、死者だけでも215人(戦後発表)、重軽傷者は数知れぬ状況で、地獄絵図さながらの惨状は目を覆うばかりであった。

 

12月22日、3回目の空襲警報が発令された。

この日は三菱大曽根工場と春日井の鳥居松陸軍工廠が空襲された。(工廠とは軍部直営の兵器工場)

 

年が明けて、昭和20年1月3日、4回目の空襲ではB29七十八機によって一般住宅を目標として、 焼夷弾による無差別空襲が行われた。この時、私の従姉は名大付属病院で看護婦として勤務していたが、 近くの鶴舞公園に高射砲陣地があって、その陣地から発射された砲弾の破片が、運悪く頭部に当たって重傷を負い、翌4日に花の命は蕾のまま、はかなくも昇天していった。

 

さきの東南海地震に追打ちをかけるごとく、1月13日午前3時半頃、三河大地震が発生した。 西三河地区では倒壊建物も多く被害は甚大であった。死者だけでも2100人余と、戦後になって発表された。 一番の悲劇は名古屋から学童集団疎開で西尾市内に来ていた児童達であった。 疎開先のお寺が倒壊したので、その下敷きとなって多くの幼い生命が失われた。

「親は死んでも子の命だけは・・・」と、願った親心が不運にも裏目に出てしまった。 彼らも陰の戦争犠牲者であった。

 

1月14日午後2時半頃、空襲警報が発令されて間もなく、退避命令が出た。 急いで防空壕へ飛び込んだ。今回は誰も声はなく、息すらもひそめていた。遠く低く「ウッウー」と、 猛獣の呻くような爆音だけが不気味に近づく。刻々と迫り来る地獄からの使者。 その魔の手から逃れる術はなく、ただひたすらに祈るのみであった。

 

長いように感じた時がたって、ついに来た。 ヒュッ ヒュッ、ドカッ ドカーッ と轟音と地響きが続いた。 「生きた心地がしない」という言葉があるが、あの時の気持ちがそれであったのだろうか。 コワイという気持ちを通り越して、ただ放心状態であった。

 

 暫くして静けさが戻って来た。ゴソゴソと壕から這い出して、2階の事務所を見た。

「ヤラレタ」と直感した。外壁と屋根の大部分が吹き飛んでしまって、机、図面等、 すべてがグチャグチャで、コンクリートのカケラや土砂をかぶって、ゴミの山と化していた。 小型爆弾が2階の床で爆発したことが分かった。もしも、これが南へ五メートルもずれて落下していたら、 防空壕へ直撃となって命はなかった。先刻の祈りが神に通じたのだ。「ありがたい」と思った。 今もこの幸運を神に感謝している。

 

この日の空襲で、三菱の飛行機生産は事実上ストップした。その時すでに、東京空襲で中島飛行機の 本社工場は壊滅されていたので、日本の飛行機生産の大部分は生産不能となった。(62機来襲)

ふと

「これで、どうして戦争に勝てるのだろうか」

と素朴な疑問が湧いたが、声に出して言おうものなら、即、憲兵に連行されるコワイ時代であった。当時の三菱大江工場には、憲兵隊詰所が二か所あって、鬼と恐れられた憲兵が七,八名ずつ常駐していた。


残るは、果てしなく広がる絶望感のみ。

 

当時、甘木女子挺身隊員であった寺西マリ子が平和を願って詠んだ心の叫びは、半世紀余の時を経た今も、私の脳裏に色あせることなく鮮明に刻まれている。

 

            くちなしの 花咲く夕べ 静かなり
                     やめよたたかい 敵もみかたも

 

 


人間爆弾


事務所が無くなったので、試作工場の片隅をベニヤで囲って、その一画を事務所として使用した。
そこで飛行機のようであって、飛行機でない物を見た。今迄話には聞いていたが、車輪の無い小型飛行機だ。本来車輪は有るのだが、その時は車輪の切り離しテスト中だった。
それと言うのも、この飛行機離陸する時には車輪を切り離して、胴体だけで飛び立つ特攻兵器であった。要するに長さ3メートル位の爆弾に、翼とロケット推進装置を付けた人間爆弾である。「秋水」とか命名されていたが、陰では「空飛ぶカンオケ」と、囁かれていた。
一旦飛び立った以上は、それが最後。運が良くて敵艦に体当たり出来れば本望。運が悪ければ水中に自爆。いずれの道も死である。戦争とは、かくも冷酷無情なものだろうか。
これが皇軍と称する天皇陛下の軍隊の、最新式秘密兵器であろうとは・・・・・。
やがて、天皇の名において、多くの若者がこれに乗って、出撃を命ぜられるかと思うと胸がつまった。

 

 

 

やがて敗戦

 

2月に入ると、各現場毎に工場疎開が始まった。私たちの課は3月下旬になって、大高の大日本紡績へ引っ越した。これを機に自宅通勤が許された。
それでも毎日のように空襲警報は聞いたが、ここなら大丈夫という安心感から、退避もせず平気だった。


5月のある日帰宅したら、姉より兄の戦死の公報が入った事を知らされた。公報によると、昭和19年9月30日、マリアナ諸島にて戦死となっていた。(正確な場所不明)
晩ご飯が済んでから、皆で仏壇の前に座って合掌をした。最初に姉が泣き出した。すると母も泣き、僕も泣いた。父はと見れば、目頭を指で押さえていた。

 

6月になると、ここも危ないという事になって、再度疎開することが決まった。主力組立工場が長野県下に分散疎開していたので、長野市へ行く事になった。
善光寺門前の白木屋旅館を寮として、近くの小学校の雨天体操場を借りて、そこへ又もや引っ越した。軍隊に例えれば、負け戦退却である。
長野でも毎日警報は出たが、敵機来襲は無かった。しかしその頃になると、もう敗色歴然。誰しも仕事をする熱意が無かった。

 

8月13日、長野市まで艦載機が来襲した。もう終わりだと思った。これ以上逃げるのには後が無い。後は日本海へドボンだけだ。

 

8月14日の夜、旅館の主人より明日正午、「天皇陛下の重大放送」があると教えられた。
皆で何だろうと話し合ったが、まさか終戦の詔勅とは思わなかった。

 

8月15日、その日はなぜか昼まで警報は出なかったが、誰も仕事は手につかなかった。昼食を早めに済ませて正午前、校内放送の拡声器を囲んで集まった。以前ならば天皇陛下の放送と有れば、当然「整列。気ヲツケ」の号令がかかるところだが、その場には監督将校が5名もいたのに、誰からも号令はかからなかった。もはや軍にも統率力の無い事を、彼らは本能的に感じていたようだった。


正午、放送が始まった。現人神(あらひとがみ)とあがめられる天皇のお言葉は、美辞麗句ばかりでむずかしかった。それでも「共同宣言受諾」とあったから「どうも降服するらしい」とは思いながら聞いた。先輩達も真剣な面差しで聞いていた。

 

放送の終わった時には、互いに顔と顔を見合わせて「負けたのか」「終わりか」と小声で確かめ合っていた。
その時、監督将校の光石中尉が「日本国負けたり。日本国負けたり。」と叫んで右腕で顔を押さえて、男泣きに泣き出した。これを聞いて、皮肉にも全員の顔にホッとした安堵感がただよった。

 

 


無謀な戦争

 

かつての戦争が自衛戦争だったのか、侵略戦争だったのかは、議論の尽きない問題である。
自衛戦争だとしたら、戦死した兵士は天皇陛下の命令によって、国のために戦って名誉の戦死をした事になるのだろうか。


それにしても、兵士の末路はあわれであった。戦いたくとも撃つべき弾丸は無く、喰うに食する糧は無く、戦わずして精根尽きはたし、遠い異国の名も知れぬ山河に骨を埋めた兵士は、数知れずあった。
とにかく、兵士も国民も真の戦争目的は知らずに、軍部の言うがままに「陛下のため、国のため」と、ただ一筋に戦った事は確かであった。(皆ダマサレテいたのでは・・・・・?)


しかし、その結果は敗戦であった。たとえ戦争に負けても、日本の国名が抹殺されて、アメリカ合衆国に合併された訳では無く、又その属国にされる事もなく、完全なる独立国家として存続を許された。
更に天皇を絶対主君とする軍部独裁政治から解放された。その上、戦争放棄を規定した平和憲法と、それに保障された自由民主主義を与えられた。
その結果、現在の平和と繁栄がもたらされた。

 

戦争でで失った損害、犠牲はあまりにも大きかった。戦死者だけでも約200万人である。
沖縄戦、それに続く本土空襲による国民の財産的損害も莫大であった。空襲による死亡者60万人余、外に沖縄戦による死者9万余と聞いている。(これは虐殺されたも同然・・・・・?)

戦争の被害は国内だけに限らず、海外においても多大な迷惑を発生させている。たとえ自衛戦争だったとしても、それを海外へ遠征して戦ったのは、いささか過剰防衛だったと思うが、第三者に対する加害者責任は当然である。反省と誠意が必要だと思う。


その反面において、広島、長崎に対する原爆投下及び、日本兵士がシベリアに戦後長く抑留された事に関しては、今後機会ある毎に抗議すべきだと思うが・・・。

 

もしも、あの戦争で日本が勝利を得ていたとしたら。軍部独裁政治は今日迄続いて、国民生活はかなりの圧迫を受けていたはずだ。おそらく今日のような、恵まれた平和日本は実現しなかったと思う。隣国の戦勝国である中国、ロシアの国民生活を想像すれば、どちらが良いか一目瞭然である。かえって負けたのが幸いだった。
思えば、全く何の利益も無い無謀な戦争であった。

 

 


平和憲法を大切に

 

侵略戦争が人道上、許されない近代の戦争においては、戦勝国にも何等の利益は生じない。しかし困ったことに「戦争で金儲け」の出来る戦争仕掛人が、世界各地にいるらしい。
現在世界各地で民族紛争が続発しているが、そこで真剣に戦争している人達も、陰で糸引く戦争仕掛人に利用されている事に気づいていないのが、不幸の最大原因だと思う。
武力衝突を、武力で介入して解決する事は難しいことと思う。その武力介入を内心喜んで待っている仕掛人がいるとしたら、彼等の思うツボである。
燃え上がった火の手は押えなければならないが、一歩進んで肝心な火元となる武器供給元を調査して、そこに何等かの対策を打つべきだと思う。


同じ人間同士、お互い誠意を持って話せば解るはずだ。「昨日の敵は今日の友」である。かつてわが国日本も「鬼畜米英」と罵り「一億玉砕」を叫んで戦ったが、力尽きて降参してみたら、意外に相手は仏様であった。
人間感情の動物である「愛と憎しみは紙一重」とか、会話の重要性を痛感する。


自衛隊の海外派遣よりも、このような重大な調停役を積極的に買って出る事こそ、世界平和に貢献する日本の行くべき道だと思う。
日本の政治家は、誰とでも妥協し握手できる才能を持った名人が多い。この面での活躍を望みたい。
せっかく今まで続いた、この平和を大切にしたいと思う。もう戦争はコリゴリだ。子、孫の代までもさせたくない。
したがって、日本が国連の常任理事国となる事には賛成したくない。又自衛隊の海外派遣にも反対をしたい。

 

現在の憲法は、戦後アメリカから押し付けられた物であるが、中身はなかなか上等だ。それをワザワザあちら様のご機嫌を取って、こちらから改正する必要は無いと思う。
あくまでも、現在の平和憲法を大切に守っていきたいと思う今日この頃である。

 

                                                  原田美貴夫

 


戦後ずっと自営業で来た私は、それまでクレペリン検査なるものを全く知らなかった。


それは昭和59年の春先のことであった。

体調をこわして家でゴロゴロするようになったある日、夕食後久しぶりに娘との会話がはずんだ。

 

「お父さん、うちの会社ね、社員の採用試験に学力試験がないのよ」と娘が言うので

「Sプレスと言えば、県下でも立派な成長企業なのにどうして」と聞けば、

「訳は知らないけれど、そのかわり面白いテストやるのよ」と言う。

「どんなテストをするの」と聞くと、

「3から9までの数字が100個位並んでいて、隣り合った2個の数字を足し算して答をその間の下に少し小さめに書き込んで行くの。3と5だったら8ね。8と7だったら15 だけれど、10の位は省略して下一桁の5だけを記入するのよ。」

「そんなの簡単じゃあないか」

「それがね。一行を一分で三十行やるのよ。簡単な問題だけに一つでも多く回答しようとあせって間違える訳。そこが狙い目よね。間違え方で性格と心理状態が分かる訳。採用するのも、配置もこれでズバリ決まりよ」

「へえ、それはスゴイ。Sプレスが急成長した原因も、そんなユニークなテストに着目したヒラメキの良さかも知れない。俺も一回やってみたいな」

「やっぱり、お父さん野次馬根性強いわあ。まだボケていない証拠よね、良かったあ。それならI課長さんに頼んで今度の土曜日に借りて来てあげるわ」と言った次の日曜日の朝、

 

「お父さんテストやるわよ」と、娘はすこぶるご機嫌である。

「今朝は頭痛がひどいんだ、昼からにして」と言えば

「課長さんに聞いたけれど、体調が悪くても学力テストではないから、真面目にやればそれなりの結果が出るそうよ。午後は私忙しいからダメ。今からやろうよ」と、押してくる。こちらが頼んだ以上あまり逆らう訳にはいかず、

「それでは、先生お願いします。」と言う結果になってしまった。

 

家の者に電話もお客様も取りつがないように頼んでおいて、離れでやることにした。

「ネエ、いいこと。全部テープの指示どおりにやるのだけれど、一番大事なことは

『ハイ、ツギ』の指示が出たら、すぐに下の行に変わってね」

「ヨシ、分かった」と言うと、娘は封筒から用紙を出して机の上に裏向きに置く。

始めは五行位練習問題があって、いよいよテープの「ヨウイ、ハジメ」の指示に従って本番開始である。

 

最初はある程度できるが、5~6行やると疲れて来るので自然と能率が落ちる。そこで「ガンバラナクッチャ」と意識して盛り返す。

そして15行やったところで5分間休憩となる。

「これはアリガタイ、一息つけて助かる」

その後で更に15行アタックする訳である。

 

どのぐらい回答できたか覚えていないが、単純な計算だけに「サン、タス、ゴハ、ハチ」などと言ってやっていては、小学校一年生のレベルで失格であろう。二個の数字を見た瞬間に答が書けなければダメだと思うと、あせって間違える結果となる。

遊びとはいえ頭痛に耐えながら、つい真剣に取り組んだので、終わった時には精神的疲労感は強かった。

 

この検査は基本的には反射神経と集中力を測り、併せて各行毎の回答量の変化状態と、間違い回答の数と発生場所によって、性格と心理状態を分析診断するものらしい。

 

2週間程後に受け取った昭和59年4月28日付、skk式VーCAT診断結果報告書によれば、公表するのには些か気恥ずかしいが

『努力型で、責任感、正義感ともに強く、情に厚く周囲から信頼される』等その他細部にわたって、ほぼ的確に性格診断されていて驚いた。

しかし、配慮事項として『口数が減り表情が暗くなり、遊び好きになり、寝起きが悪く体調を気にし過ぎる』と診断されているのは、八分方正解かと思うが『遊び好きになり』との指摘は誤解を招くので困る。その一年位前から体調をこわして、仕事を休みがちになったのが原因のようだ。

 

次に『考え方が大げさになり、自信過剰で金遣いが荒くなった』と診断されたのには恐れ入った。これにも一理あるのだが、ちょっと誤解されたようだ。息子の結婚に備えて二世帯生活ができるようにと思って、二十坪程の離れの建築にかかり丁度完成した時期でもあった。それが我が家としてはちょっと贅沢な普請となり、余分な出費を気前よく支払ったのが『金遣いが荒くなった』の原因らしく、思わず苦笑してしまった。

 

それに、折りからバブル景気の助走期で趣味の株式投資が好調で、本業の司法書士業務に数倍する利益があがり、自信満々で積極的に買い進み方針を取っていたのも確かであった。これも影響したとすれば、多少のピントはずれはあったとしても「まあまあ良く当たりました」と言うべきだろうか。

 

世間では、「そんなことが分かる訳がない。まぐれだ、インチキだ」との批判もあるが、信用するもしないも人それぞれである。私は少なくとも一般的な占いよりも、ずうっと科学的根拠がありそうな気がする。

 

ただ一桁の数字2個の足し算を連続計算するだけの簡単なテストで、なぜこんなにも内面的な心理状態が分析できるのか不思議でならない。

このような複雑な心理テストを開発されたドイツの精神医学者エミール・クレぺリン博士(1856~1926)と、それを民族が違えば文化も違う我が国日本へ導入して、かくも高度な心理テストを完成された内田勇三郎博士(1894~1966)お二人の功績は実に偉大である。

 

人の性格は千差万別であり、実験データーも気の遠くなるような膨大な数量に及んだ筈だ。ましてコンピューターなき時代の事である。両博士がいかに高度で緻密な頭脳の持ち主だったとしても、汗と涙と血さえもにじむような御苦労は、今後私の人生規範として肝に銘じて行きたいと思う。

 

 

                               原田美貴夫

 

 

平成7年の秋頃、毛筆行書体によるワープロソフトがあることを知った。

 

生来、悪筆な私は「よし、これで年賀状の宛名書きをすれば便利だ」と思いついた。

懇意なS電器のT店長に相談したら「僕が年賀状に最適なソフトを持っているから」と言って、家のパソコンにインストールしてくれた。

T店長は「これで年賀状はバッチリです。暑中見舞いもできます。と言って帰った。

 

昭和60年以来、パソコン通信で株価情報を取り寄せて見てはいたが、パソコンをワープロとして使用したことは一度もなかった。

勿論ワープロソフトの『一太郎6.3』がセットされていることも、ワープロの効能も充分知っていた。しかし、機械オンチで全く手が出せなかった。

もっとも、時折り書く手紙などは、タイプライターを使いなれていたのも、一因だったかも知れない。

 

文字通り六十の手習いである。一念発起してパソコンによるワープロ練習に取り組んだ。

従来はキーボードだけでマウスは使用しなかったけれど、パソコンでワープロとなると、マウスの操作が必要となる。

マウスは経験者にとっては便利だが、初心者にはこれがすこぶる難しい。クリックしようと思って人差し指に力を入れると、マウスが前滑りして,予期せぬ所でクリックされてしまい、とんでもない画面が展開されて収容不可能となってしまう。画面を閉鎖してスイッチを切ろうとすると、『一太郎が閉じられません』と大きな文字で表示して来る。

 

コンピューターならば、こんな時こそもっと適切な処置を指示すべきだと思うのだが、初心者の気持ちを理解していないのが、このソフトの欠点である。止めたくとも止められない状態だ。「全く処置なし」やむをえずリセットスイッチを切って、お手上げ降参である。 

 

そんな折しも、近くの県立高浜高等技術専門学校で、パソコンによるワープロ教室が開講されることを知った。

使用ソフトは『一太郎6.3』で家にあるのと同じだ。申込みをしたら運良く抽選に当たった。

嬉しい事に受講料は無料とのこと。

 

講習は土曜日と日曜日の2日間で、朝9時から午後5時までの特訓である。これはきつかった。

生徒の私としては、ワープロなんて全く未知の世界であるが、先生としてはごく初歩的な幼稚園の授業である。どうしても説明のテンポが早くなってしまう。落差が大き過ぎて付いて行くのが大変だ。

 

休憩時間が待ち遠しくて腕時計ばかり見ていた。小学生の頃もそうだった。勉強嫌いの私はいつも放課のベルの鳴るのを待ちわびていたものだ。

 

せめてもの救いは、講師のО先生が優しくて美人だったことだ。

実習では「センセイ、オネガーイ」と声を上げれば「ハーイ」と応えて、すぐに寄って来て肩越しに「何してるのよ、そこ違うでしょ。ここよう」とちょっと甘い声。マウスを握る僕の右手に白魚のような指先を重ねて、手を取って教えてくれる。その時困ったことに先生の胸の膨らみが肩に触れる。瞬間ながらも嬉しい衝撃を感じる事が度々あった。苦労と忍耐に対する大いなる報酬であろうか?・・・。

 

いろいろと試行錯誤を繰り返しながら、年末までかかって約百人分の住所を宛名カードに入力することができた。

さんざん苦労した甲斐あって、長年頭痛のタネであった年賀状の宛名書きから解放された。

これからは、写真やおもしろそうなイラストなどを張り付けて、チョットばかり気の利いた年賀状を作りたいとは思うけれど、その才能のありや、なきやが問題である。

 

それにつけても、パソコンのワープロ機能はスゴイと思う。かつて使用していたタイプライターと比べたら天地の相違である。文章の加除修正は跡形も残さず瞬時に可能だし、活字の大きさ、書体なども幅広く変更できるし、イラスト、写真なども好きな所に好きな大きさで張り付け可能だ。正に万能印刷機である。

 

値段も手頃なものが多く、私が 現在使用しているパソコンは、昨年春に5年保証との事だったので、ソーテック製の14.2GBで17インチを11万円そこそこで購入した。一流メーカー品の半額以下である。

とかくの風評もあるが、何の支障もなくスイスイと作動してすこぶる快調である。

 

 

                    原田美貴夫

 

 

平成12年4月、かねてより懸案であった、インターネットを始めた。

 

ボツボツ練習しているうちに「なるほど、このパソコンは骨董品だわい」ということが、だんだんと分かって来た。

『知らぬが仏』とかで、使用パソコンがNEC製とはいえ、旧式だけに回転の遅いのが致命傷であり、ネット取引には暫くは手が出せなかった。

  

K氏に電話して
「パソコン買いたいけど何がいい」と相談すると

「日本人バカだから、すぐブランド品買うけど、二流品で上等。中身は同じだから」「どこで買うの」と聞けば

「西尾のエイデンなら顔が利くから、明日十時に来られる」と言うので

「では行くわあ」と約束する。

 

翌朝(平成12年4月1日)10時少し前にエイデン西尾店に行くと、暫くして彼が来た。

彼の奨めるままに、5年保証なら何でも良いと思って、ソーテック14.2GBの16インチを5年間の保険料込みで、金十一万三千百九十円也で購入した。一流メーカー品の半額以下である。

 

知人のS君に

「パソコン、SOTEC買っちまった」と話すと

「安いけど、SOTECよく故障するからな」といやな返事。これには傷ついた。

インターネットなんて未知の世界へ踏み込んでしまったので、全く分からない事だらけ。間違い操作の連続である。そうするとパソコンが反乱をおこす。フリーズ現象を起こして全然動かなくなってしまい、苦労の絶え間がなかった。

やっぱり『安物買いの銭失い』だったかと、後悔の念がじわぁと湧いてくる。 

 

K氏に電話すると、

「それはパソコンが悪いんじゃなくて、はっきり言うと原田さんが、ヘタなんですよ」

「ヘェー、それは、どうもマイッタね」

「たとえ富士通買っても、素人がネットを始めれば、誰だってそうなりますよ。止まっても故障しないから、強制終了するだけです。特にお宅は株価分析なんて、デカイオバケみたいなのを積んでるから、パソコンが目を回すのも無理ないですよ。保証ついてるから、壊れたって平気、平気。安心してガンガン何でもやりなさいよ」

これを聞いて、ちょっと元気が出て来た。

 

4月7日、初めてN証券会社とネット取引を開始した。

始める前までは、多少の危惧感を抱いていたが、『案ずるより産むが易し』とかで、銀行の自動支払機と同じ要領である。

注文内容が順次に画面に表示されるので、それをよく確認して最後に実行ボタンを押せば良いのだから、急ぐ必要はなく、記録も残るので電話取引よりも安全確実だと思う。それに手数料が割安になるから、パソコン購入費もいずれ消却できるはずだ。

 

その後、苦渋と忍耐のうちに試行錯誤を繰り返し、いろんなことを体験した。

 

中でも驚いたのは、ある日、不可解な謎のメールが届いたことだ。ローマ字のようであって、ローマ字ではなく、記号か何か符丁のようなものがズラリと並んでいる。呪文か、悪質な悪戯なのか、もしかして、何かの暗号メールではなかろうかと心配したり、全く訳が分からなくて薄気味が悪かった。4、5日後にK氏に聞いたら、バケ文字と言って、送信者側の言語設定が外国語設定に間違っている場合に発生するらしい。

 

日のたつにつれて、トラブルは多発するし、騒音が大きくなったので、8月中旬に思い切ってリカバリーを実行した。これはパソコンにセットした各種ソフトや、作成保存したプログラムなど、すべてを消去して、ドライブ(記憶装置)をカラッポにする大掃除のようなものである。

 

その結果、一時的には小康状態を回復したが、10日も過ぎるとまた一段と悪化したので、9月初めにSOTEC本社へ修理に出した。その間K氏に応援を依頼すること度々であった。

 

返送されるまでに20日ぐらいかかったけれど、ドライブを新品に交換してくれたのと、こちらの腕前が多少は向上したらしくて、以前のトラブルがウソみたい。すこぶる調子が良くてスイスイ動く。使用していても実に気持ちがいい。

 

先日、パソコン経歴の長いE氏に会った。

「安かったので、SOTECのパソコン買ったけれど、どうだろうか」と聞けば

「SOTEC知らないけど、どこで買ったの」

「西尾のエイデン」

「それなら心配ないよ、大丈夫。エイデンは変な品物は売らないから」

と、言われてなんとなくホッとした気分になれた。

 

平成12年10月8日は記念すべき日となった。

てんやわんやのうちに、息子の協力を得てヤフー、ジオシティーズ【ウォールガイ、ブル7596】に、ホームページを開き、その一画に『エッセイの部屋』も併設することができた。

2001年はIT革命の幕開けとか。我が家のITは、このささやかなホームページを 情報発信基地として、推進育成すべく夢を膨らませている。

 

                                

                  原田美貴夫

 

 

初めて図書館友の会まつりに参加した。

 

受持ちはテント張りであったが、当日は小雨模様だったので、2張り設置の予定が1張りだけで済んで、早く終わってしまった。

会長さんに、

「あとは何をやりますか」と聞くと、

「リサイクル本(廃棄本)の運び出しを手伝って」と言われ、エレベーターで地下室倉庫へ降りた。

 

本のギッシリ詰まったダンボール箱が山と積まれていた。これを台車に積んで、図書館2階の西側通路に運んで売り場を作って並べる。若いお姉さま方は、なれた感じでカッコ良くキビキビと動き回っていたが、熟年で腰痛気味の私には正直言って、これはチョットきつかった。さぞかしカッコ悪いおじさんぶりを演じていただろう。

  

ことの成り行き上、売場の店番を引き受ける羽目になったのには面食らった。縁日でにわか本屋の露天商を開店したような気分であるが、営業度外視のボランティア商売だから気は楽だ。

 

普通の単行本は2冊で百円、文庫本は3冊百円で売るように指示された。私は文庫本の受持ちとなった。

「1冊だけほしいけれどいくら」と聞くお客が多かった。

「3冊セット売りだから、1冊だけでも百円、2冊でも百円。おまけだと思って3冊買って」と笑って答える。

「ああそうか、もともと安いんだから仕方ないや」と言って笑顔で買ってくれるのは気分がいい。

 

午後2時過ぎであった。1人の中学生が、2冊は選択できたが、3冊目をあれか、これかと随分と悩んでいた。終了間際だったので、

「おまけしてあげるから、4冊百円でいいよ」と言ったら、

「ホントに、いいの」と目を輝かせて言う顔がとても印象的で、今でも思い出す度にさわやかな幸せを感じる。

 

始めての参加であったが、見知らぬ大勢の人と楽しい会話ができたし、貴重な意義ある体験となり、よき1日であった。

 

 

 

平成11年10月、証券界において売買手数料の自由化が行われた結果、インターネット取引の手数料が大幅に引き下げられた。

 

平均して三分の一から五分の一は普通で、中には十分の一を、うたい文句に宣伝する会社さえ出現してきた。

これでは、多少なりとも株式投資にかかわる者として、いくら機械オンチでも、ただ傍観していては世間体が悪い。「あいつ、バカではなかろうか」と冷やかな陰口が聞こえそうな感じである。

 

インターネット取引は、電話代が高くつくという先入観が強かったのと、相手方の見えないパソコン上での取引注文に何となく不安があって、なかなか踏み切れなかった。

ところが、ケーブルテレビのネット通信ならば、月額五千円で使い放題。それに電話代は一切かからないとの話を聞いたので、平成12年2月、地元ケーブルテレビ会社にネット通信契約をした。

 

「2、3日したら、電気工事屋さんが、引き込み線の工事に行きますから」

とは聞いたが、一週間くらい経ってやっと

「明日のお昼ごろネット工事にお邪魔したいのですが」との電話である。

「お昼といっても、昼前か、後かどちらですか」と聞けば

「12時10分過ぎぐらいに」

「昼ご飯は?」

「昼飯なんか食べてる暇がありません」

の返事にビックリ仰天。今時そんなに忙しい商売があったとは全く知らなかった。

 

翌日、正午少し過ぎに工事屋さんが来た。

「時間、正確ですね」と言えば、

「インターネット工事ですから、正確に行かないとね」と笑顔がすばらしい。

「なるべく見える所には配線したくないから天井裏を見せて」

と言って、大きな体で狭い天井裏に入ったり出たり、器用にたちまわる。

「ところで、電気屋さん昼ご飯は」と聞けば

「いいや、食べていません。いつも時間どおりに食べられないんですよ」

「食べずに働くばっかりで、お金が貯まって困っちまうね」。

「いいや、それが不思議と貯まらないんです」

「うちのカアチャンがすし弁当買っといたから食べてよ」と言う。

「そんなこと恐縮です。いけません」

「遠慮せずに食べて、腹が減っては戦ができんでしょう」

「じゃぁ、戴きます」と言って食べ始めたら、食べる事の早いこと。見ていて気持ちの良い食べっぷりである。2、3分でペロリとたいらげてしまった。

「足りなかったあ」と聞けば

「いいや、十分。おいしかったです。ごちそうさまでした」。暫くは気軽な会話が続いた。

 

その日はモデムを設置して、それに引き込み線をつないで工事終了である。配線も天井裏に上手く隠してくれた。

「私の仕事は、このモデムの設置までですから、2、3日したら接続業者の人が来ますので」と言って帰った。

 

しかし、接続業者もやはり2、3日では来なかった。

1週間程した午後2時頃、B接続会社のK氏が来訪した。

 

うちのパソコンを見るなり

「失礼ですが、これ古いですね」と言う。

「それでも、3、4年前に買い換えた2台目ですが」

「パソコンは3年たてば骨董品ですからね」

「これではダメですか、バージョンアップもしてあるけど」

 無知な私は『知らぬが仏』で平気で聞いた。

「ダメと言うことはないけど、ヤッテ見ますか」

「ええ,お願いします」

「では始めますか、アレッ、何かスゴイの入ってますね。これ何ですか」

「株価分析ソフトだけど」

「今まで随分パソコン見て来たけど、こんなの初めて見ました。重たくなるけど、とにかくやってみます」

 

「ところで、昼ご飯すんだぁ」と聞けば

「いや、まだです。私らぁ、おひるが満足に戴けないんですよ」との返事。

この世界はどこも『超繁忙』らしい。結構な業界である。

カアチャンに、すし弁当買いに行くように頼むと、

「今日お店お休みだから、おそば作るわ」と言って、支度を始めた。それを

「おいしいっすね。奥さん料理上手ですねぇ」とか言いながら、いかにも美味しそうに食べてくれたのは嬉しかった。

  

1時間程でプロパイダーに接続終了した。

情報検索会社のヤフーを『お気に入りコーナー』に登録保存して、各種ホームページの検索を教わる。

「極秘だけど、ピンクならここですよ」と、かなり強烈な画面を出して見せる。

「スゴイネ」

「これ本当は有料なんだけど、タダで見えるんです。登録しときますか」

「ダメ、ダメ。カアチャンに見つかると、まずいよ」

I証券、M証券のHPアドレスの登録を頼むと、

「何ですか、株のネット取引。スゴッイスネ。そんな人初めてですよ」と感嘆した口調である。これを聞いて、私は「ネット取引で立ち後れていなくて良かった」と思い安心した。

 

他に、メールの打ち方、読み方、アドレス帳のことなど、ビッシリと夕方まで特訓を受けた。しかし、残念な事に記憶力がゼロ近くに低下している事を痛感しただけで、結局教えられた十分の一も頭に残らなかったようだ。

 

「遠からず新品買いたくなるけど、このパソコン壊すつもりで、何でも目茶苦茶に練習して、ある程度分かってから、新品買った方がいいですよ。それから僕のアドレス登録しておきますから、困った時はメール送って」

と、言ってK氏は帰った。

 

 

                                                              原田美貴夫

 

 

車の運転免許を取って35年になるが、今回人身事故を身をもって体験した。

 

平成9年7月11日、朝8時25分頃であった。

安城市役所前の道路を豊田市方面へ向かって走行中、国道1号線の少し手前の信号機のない交又点だった。

 

いきなり狭い右横道より、S製パンの中型トラックが一旦停車する事なく、かなりのスビードで進入してきた。

「アッ」と思う間もなくガッツンと大音と共に衝突、同時にバリッ、バリッ、とウィンドウガラスに亀裂が走る。ボンネットはグチヤ、グチヤ、右窓はと見れぱ頭上から、トラックの運転席が覆い被さるようにして、グッ、グーと押して来る。瞬間「アウトだっ」と観念したら頭の中は真っ白。車はその儘2、3メートル斜め左に押されて止まった。

 

相手方運転手の「大丈夫ですか」の声で我に返った。降りようと思って体を動かしたら激痛を感じて、暫くは動くことができなかった。全身数か所に打撲挫傷を受けていたのだった。

 

それしても不幸中の幸いだったことは、当ったのが前輸部分だった事と、後続車が無かったことだ。もしこれが運転席だったり、後続車があったらどうなっていただろうか。考えただけでも背筋が寒くなる。正に「地獄極楽紙一重」の隙間をスルリと通り抜けた感じだ。

 

はたして、この幸運が単なる偶然によるものか、持って生まれた運命ゆえか、それとも神の采配によるものであろうか、日頃不信心な私には分からない。とにかく運命の女神には感謝、感謝である。

 

相手方運転手は、温厚な人柄で誠意をもって対応されたので、今も後遺症は残るがその人を恨む気持ちは生じない。

 

それに引替え誠意の感じられないのが、加害者責任を負担すべきS製パン会社である。

事故処理坦当のK係長が言うには

「補償に関しては、Y保検会社に任せて有りますからそちらと話して下ざい。念のため言っておきますが、貴方にも5%や10%の過失責任はあると思いますよ。それから保険会社の補償金額以上の余分は、たとえ相手がどんな右翼でも暴力団であっても、会社からは絶対に出ませんから」と、キッパリ釘をさされて後は知らぬ顔であった。

 

S製パンといえぱ名古屋でも届指の名家MK一族の会社であり、製パンという商売柄、神士的でお上品な会社だと聞いていた。それが「右翼にも暴力団にも屈服しない」筋金入りの会社だったとは意外であった。「世の中聞くと見るとは大違い」示談交渉の先が恩いやられる。

 

8月上句、Y保検会社の担当者が来訪されて

「原田さんの修理費は、おそらく車両査定価額の約四十万円より高額だと思いますが、その場合には車両価額が補償限度額となります。それから原田さんの過失責任を10%引いて三十六万円。その上に、S製パン側の車の修理費が六十五万円ですので、その1割、六万五千円を差引くと、約二十九万五千円が補債金額です」

と、言われた時には唖然としてすぐには、返す言葉が出なかった。

 

従来私が使用していた車は、カローラウィンディであった。購入して四年半経過していたが、走行キロ致は一万キロ弱で、車庫内で保管していたので程度は比較的良好だった。今から五年乗っても二万キロそこそごであり、大事に乗れば七、八年は充分乗れた筈である。

修理代の見積りを聞いたら約八十万円とのこと。それならば新車をと思って、同型車を百二十五万円で買う契約をしたところであった。事故さえ無けれぱ、不要な出費である。

これらの事情を説明して、ちょっと質問をしてみた。

 

「こちらの過失責任10%の根拠は何ですか」

「事故回避義務違反です」

「そんなヘリクツ言われたら困るよ。アンタだってあのような場所を通過する時に、いつでも停車できる速度としたら、時速十五キロか二十キロだけど、そんなに減速しますか」

「しませんね。皆がそんな事していたら日本中の道路は大渋帯パンクですわ」

「そうでしょう。だから過失は承服できません。あの場所で歩行者をハネタのなら違反は当然ですが、警察の調査に際しても私は何の処分も受けていませんからね。誰でも横道からの車は一旦停車するものだと思い込む『信頼の原則』があるでしょう」

「私個人的には同感ですが、保険業界のキマリですから」

「Sパンの車が一且停車した場合と、しなかった場合の過失割合はどうなりますか」

「過失責任加重のところに、居眠り運転、酒酔い運転、スビード違反等は列挙されていますが、一旦停車は無いから変わりません」

「それが不合理なんです。著しい前方不注視の違反で加重すべきでしょう。Sパン車が一且停車していたならば、おそらく事故は発生しなかっただろうし、仮にあったとしてもごく軽微な事故ですんだと恩うよ。その場合なら10%の過失責任認めますよ」

「ごもっともですが、キマリですから私にはどうにもなりません」

「法律の解釈には幅がおると思うんですよ。憲法九条など文字どおり読んだら自衛隊なんか明らかに憲法違反でしょう」

「全くです。うちの高一の息子などは『国が憲法違反やっているのだから、僕たちがちょっとぐらい、校則違反してもイインダヨナア』と言うので困っています」

「それはさておいて、車両価額を補償限度額とする理由は」

「これも業界のキマリですから、裁判となれば分かりませんが」

「では仮に、私の車がSパン車の横っ腹に衝突した場合はどうなりますか」

「Sパン車の交差点先入が明確ですから、原田さんの過失が20%です」

「こちらがブッツケタ場合でも20%だけですか。それは大変有利ですね」

「そうです。原田さんには優先道路の優先通行権がありますから」

「人身事故の方はどうなりますか」

「人身の方は別途扱いで、自賠責で国の方から100%出ます」

「オカシイですね。国が払うのは100%、保険会社は90%ですか。回答はいずれにしてもSパンのK係長にしますから」

「私個人的には原田さんがお気の毒だから、Sパンに追加上乗せを出すようによく話してみますが…」

 

8月下句、K係長より電話があって

「Y保険からの条件いかがでしょうか」

とのこと。

「あれはヒドイよ。金銭的な要求はあまりしたくないけれど、もう少し面倒みてよ」とは言ってみたが

「お気の毒ですが、前にも言ったように、たとえ右翼でも暴力団であっても、余分は絶対に出せませんから」

「それでは社長と直接交渉しますから、社長に面談の取りつぎをして下さい」

と申し入れると、K係長は驚いて声高に

「そんな事はできる訳がありません」

「なぜですか」と、とぼけて聞く。

「うちの会社には従業員が八千人もいます。その一社員が起こした交通事故に、社長が一々かかわっていられると思えますか。それに交通事故に関しては私がオールSパンの代表です」

と、なかなか立派な御挨拶である。これでは話にならないと思ったので

「とにかく社長に内容証明郵便を出しますから」

と応酬する。

「無駄なこととは思いますが御自由に」

そして、ガチャンと電話は切られた。

 

時の勢いで、内容証明とは言ってしまったが、書くことはなかなか難しい。毎日絶えず頭の片隅で考えていたが文案がまとまらない。

一週間位はすぐに過ぎてしまった。もう時間的限界である。

単なる意思表示であるから飾り文句はいらない。事故の経過を簡単明確に順を追って書いた。金銭的な要求は全然しなかった。最後に

「当方いたずらに争いを好む者ではなく円満解決を望みます。人間感情の動物です。貴社長の御誠意ある解決案を御明示下さい」と結んだ。

 

それでも字数にして千八百宇位になった。これを内容証明にすれぱ、紙数が増えて面倒だし先方も読みづらい。A4用紙二枚にパソコンで打って、封筒に「親展文書」のスタンプをちょっと目立つ青色で押して、配達記録扱いで郵送した。

 

効果は驚く程てきめんであった。

Sパンの対応は早かった。10日も経ずしてK係長がO部長とS課長を伴って来訪された。

O部長が当初の金額よりも、相当アップされた金額を提示されたので、それを快諾して示談書に調印した。

これにて一件落着である。

 

 

 

5月の中頃、近所の稲垣さんから、花ナスの苗を十本程いただいた。

 

花ナスは、読んで字のごとく、鑑賞用のミニナスである。茎と葉は普通のナスそっくりであるが、実はミニトマトみたいで、色も赤味の強い茜色である。

3、4個ずつ房なりして、中身はほとんど種子ばかりだから表皮が堅くて日持ちがするので、近年、夏場にはお墓のお供え花に重宝されている。

 

十年程前に一度、プランターに植えて、水やりだけで他には別段の手間はかけなかったが、その時は実がとても良くついたので、玄関先に置いたら近所の人達から、随分と珍しがられた。

 

「路地に植えた方がいいよ」と聞いたので、今回は庭先に適当に植えた。

成長力は旺盛で、毎朝水をやる度に目に見えて大きくなっているので、朝起きの楽しみが増えた。

7月の中頃には枝も数本出て草丈が50センチぐらいに伸びて、花が咲き始めたらこれもスゴイ咲きぶりだ。白くて1センチ弱の可憐な花が3、4個ずつ集まって、あっちこっちに、毎日次つぎと咲くのでこれを見るだけで、目の保養となり気分爽快となる。 

 

ところが、数日たった時ある異変に気がついた。

いずれの花も2、3三日してしぼみかけると、ぽとりポトリと落花して、実が付かないのである。 始めのうちは『ムダ花』かいなと思い、いずれ『ナリ花』がつくだろうと楽観していたが、どうもおかしい。ナリ花らしい変わった花は全然つかず毎日同じような花が無数に咲くが、その分だけ前に咲いた花がぽとりポトリの繰り返しである。

 

たまりかねて8月の終わり頃、稲垣さんに電話して聞いてみた。すると奥さんが

「ムダ花はなくて全部ナリ花だけれど、うちも今年はダメなの。3つ4つ、ついてるだけよね。他で聞いたら、今年は陽気の加減か皆さん不作らしいわよ」

と、言われてまずは一安心である。しかし、あちら様は3、4個は確実についているのに、我が家はゼロである。その違いは大きい。

  

さっそく蚊とり線香に火を付けてそばに置き、蚊にさされないようにして、葉っぱを丹念にかき分けて見て行くと「あったあ」緑色の大豆粒ぐらいのが、葉陰にそっと隠れるようにして三個並んでついていた。「よかったあ」と思う。

他にはどうかなと全部調べて見たが、結局 後は発見出来なかった。しかし、全部『ナリ花』であることが分かったので、ほのかな希望が湧いてきた。

 

その夜「では、なぜ実がつかないのだろうか」と 色々考えてみた。

日照り続きとは言え、水やりは特に気を使い、肥料も程々に施しているし、消毒は2回もしたから害虫の発生も見られない。後は何が不足だろうか?・・・。

暫くして「あっ消毒だ」と閃いた。

花の授粉を媒介してくれる益虫まで殺傷してしまったのだ。今年は天候の加減で、この虫の発生が少なかった上に、おまけに消毒で殺してしまったのだ。

「そうだ、明日の朝は人工授粉をしてやろう」と思いついた。

  

ところで「人工受粉ってどうするの」と迷ったが、以前朝顔の交配をした時には、赤色の花を取って白色の花の花粉にすりつけるだけで成功したことを思い出した。それにテレビでもリンゴ果樹園で、花どうしを接触させて授粉しているのを見たことがあった。「あの手でいけば簡単、大丈夫だ」と安心感がもてた。

 

翌朝、さっそく人工授粉にとりかかる。

と言っても、一個の花をちぎって、それを新しく咲いた花に、チョンチョンと軽くタッチするだけだから簡単な作業だ。まさしく『朝飯前のひと仕事』である。

 

『ダメで、もともと』ながらも、半信半偽で4、5日続けていたら、変化の兆しが現れて来た。半数近くは落花するが、残りのしぼんだ花ビラの芯がふっくらと膨らみかけているのがはっきりと分かる。思わず「ヤッター」と声がでる。

この成長も早く、日毎に大きくなり一週間もすると大豆粒ぐらいになった。

 

その後も今日(2002.9.25)まで人工授粉を続けて来たが、その間に草丈が1メートル近くに成長したこともあって、成果は大きかった。 

今では数え切れない程の実がつき、早いものは梅干し大に成長して、色もオレンジ色から赤色が日増しに強くなっていく。

 

それにつけても、このたくましい成長力には驚嘆する。自分も負けずに元気出さなくっちゃあと思いを新たにする。

 二か月余にわたって咲き続けた可憐な花もそろそろ終りらしく、季節の変わり目が感じられる。

 

 

 

 

 

毎年寒くなると思い出す。

あれは平成7年か8年の節分頃だった。

 

夕食と入浴を済ませた後、当時はまだインターネットの普及前だったので、パソコン通信を利用して30分間くらい株価データを見るのが習慣だった。

エアコン暖房は頭の方が暖まり過ぎて気持ち悪いし、石油ストーブは油の臭いが気になるので、一人の時は電気ストーブを使用していた。

 

ある晩、何となくコゲくさい臭いが気になったが、私はタバコを吸わないので、それからの失火はあり得ないと安心もしていた。

いつもどおり30分程でパソコンを終わりストーブを消して居間に戻ると、こちらでは何も悪臭は感じられない。念のため車庫から物置まで見て廻ったが、異常は無かった。

 

その翌晩の事であった。ストーブをつけてパソコンを始めて暫くしたら、またもや昨晩同様のコゲくさい臭いがする。しかも、段々と強くなってくるようだ。気になったので居間の方を覗いて見たが、やはり異常は感じられなかった。

窓辺だったので隣家からの臭いかなと軽く考えてパソコンを続けていたら、突然「ボワッ」と音がして、パソコンの画面が消えて黒くなってしまった。それと同時に足元の延長コードのコンセント部分から発火して、炎が20センチくらい立ち上がったのにはビックリ仰天。咄嗟に手元にあった雑誌で炎を2、3回叩くと、火は上手い具合に消えた。

 

「灯台もと暗し」とかで遠くばかり気にして、うかつにも火元はすぐ足元にあった事に全く気付かなかった。

それまで、ストーブ側のコードを接続した時にプラグがゆるくてガタガタ動く事は知っていたが、それが原因で加熱して発火するとは夢にも思わなかった。

 

後日、出入りの電気工事屋さんに話したら「今まで原田さんはもう少し利口な人かと買いかぶっていたが、そんな常識も知らなかったなんて、俺の方がましなところもあったのかと思うと嬉しくなってくるよ」と、笑い飛ばされてしまった。

 

それにしても幸運だったのは、居間だけ覗いてすぐにパソコンに戻った事だった。もしあの時、車庫やら物置などの外回りを気にして廻っていたら、確実に火は机のベニヤ板に燃え移っていただろう。机が燃えれば炎は「アッ」という間に板壁から天井板に走るのは必至である。昔のような土壁のない新建材ばかりの最近の住宅では、一旦火がつけばマッチ箱同然である。

 

その2~3年後に偶然近くで十坪弱くらいの子ども部屋から出火したのを見かけたが、火力が高く炎は窓から渦を巻くように吹き上がり、とてもバケツの水の届く所まで近寄れない状態であった。数分後に到着した消防車は、母屋への類焼をくい止めるのが精一杯の模様であった。

 

寒さ厳しい折から、「火の用心」にはくれぐれも注意すべきと思う今日この頃である。