原田 美貴夫
国家総動員
戦後生まれの人には理解しがたい事だとは思うが、戦前には国民の義務として兵役があり、徴兵制度が確立していた。一旦召集令状が発令された以上は、これを拒む事は不可能であった。
更に軍属制度が古くからあり、軍の必要に応じて土木作業員、運送要員、従軍看護婦等は何時でも強制徴用する権限が軍にはあった。但し実務面では、契約制が採用されていた。
支那事変の拡大するにつれて、軍部は国家総動員体制を固めた。それに伴い、昭和14年に国民徴用令が施行された。これは国民に対して軍需工場への強制就職を命ずる法令であった。
戦死した兄も、開戦前の昭和16年10月に徴用されて、熱田の陸軍工廠に強制就職を命ぜられた。そして入所したら即日「軍属ヲ命ズ」であった。
今では形見となった兄の工員手帳によれば、軍属読法として
一、長上ニ敬礼ヲ尽シ・・・。
一、長上ノ命令ハ其ノ事ノ如何ヲ問ハズ直チニ服従スベキ事。
とあり、右条項及び他の法律規則等に違反したる者には、陸軍刑法(軍法会議)により重く処罰される旨が明記してある。
昭和18年中頃になって戦局が厳しくなると、学徒出陣、学徒勤労隊、女子挺身隊、一般社会人に対しても、徴用適用年齢が拡大されて、兵隊失格の男子の大部分が軍需工場へ強制就職させられた。
そのうえ極めつけは、鉄砲玉(銃弾)や兵器を作るためと言って、金属回収運動が始まった事だった。
全国の寺院仏閣に対して、梵鐘(つり鐘)及びロウソク立て、花立て、その他金属製品の供出を求められた。
当時の軍隊では、兵隊サンの命よりも鉄砲の方が大切に扱われていたように、各寺院にとっても梵鐘その他仏具は仏様の次に大切な道具だった。拒めば国賊扱いは必定である。ずい分複雑な気持ちで献納された事と思う。梵鐘などは今買うとすれば何百万円、中には千万円以上の物も有ったと聞く。
一般家庭に対しても同様であった。どこの家でも「すべてお国のため」と思って、仏壇の中のロウソク立て、花立て等を献納した。
当時忠魂社(新川神社)にも楠木正成の銅像があったが、これも取りこわして供出された。
やがて、小学校の校庭に集められた梵鐘・花立て・ロウソク立ての山を見て「こんな事をしていて良いのだろうか、仏様のバチは当たらないだろうか。」また「これで鉄砲玉を作ったとしても、その後は何を材料にして作るのだろうか。これで戦争にホントに勝てるのか?」と、子供心ながらも心配になった。
しかし学校の先生も家の父も「日本は神様の国だから絶対に勝つ」とは言うが?・・・・・。
当時ラジオから流れる戦時歌謡では、
♪ 咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
上野駅から 九段まで・・・
杖をたよりに 一日がかり・・・
こんな立派な おやしろに
神と祀られ、もったいなさよ
と死を美化して、讃えるような悲壮感の強調されたものが多かった。人も、物も、歌も、総てが、国家総動員であった。
兄の出征
昭和17年12月、当然の事ながら兄にも召集令状が来た。
寅年生まれの姉は早速、兄の無事を願って同級生や知人に頼んで、千人針を縫い始めた。

出征の3日くらい前の夜の事。兄は「美貴夫、洋食を食べに行こう」と言って、銀座通りにあったオオギ屋食堂へ連れて行ってくれた。そこで生まれて初めて「ビフテキ」なる物を食べた。これはうまかった。何しろその後2回目に食べたのは、戦後の昭和25年か26年頃だったから、当時としてはかなりの御馳走であった。
出征前夜、親類の人たちと兄の友人3人が家に集まって送別会が開かれた。兄の友達もいずれ近いうちに出征の身であったが、みんな夜遅くまで陽気に飲んで歌っていた。
一夜明けて出征当日、神社での壮行式で兄は「国家の干城として・・・・・生還を期しません」と動ずる事なく、大きな声で挨拶をしたが、その時わたしは兄が本当に戦死するとは思えなかった。
神社での式が終わると、忠魂社で新川町合同の式があって、それから新川町駅から電車に乗って出発である。その日は出征兵士が15人位あったので、ホームは見送りの人でいっぱい。その人達が皆手に手に日の丸の旗を振って、バンザイ、バンザイで見送った。ホームは人の波、旗の波、歓呼の声でどよめいていた。はた目には壮観であったが、送られる者の心情や如何に・・・。
発車間際、兄は窓から身を乗り出して、僕の手を強く握りしめて、
「美貴夫、元気でナー」
「兄ヤンもナー」
後には言葉は無く、さすがに別れはつらかった。
この日、父母はその電車に乗って名古屋まで送って行った。
軍事郵便
年が明けて昭和18年初頭になって、満州の海城から兄の軍事郵便が届いた。筆まめな姉はすぐに返事を書いた。その後も月に一度くらいずつ軍事郵便が来た。僕も時には手紙を書いた。
この兄とは異母兄弟であった。兄の母は早く亡くなったので、兄は母の実家で祖母の手で小学校6年生まで育てられたとの事。
ある時、この祖母と一緒に写した写真を送った。少し日が経ってから「祖母との写真が届いた。うれしかった。」との返事が来た。
この写真を兄は最後まで持っていてくれたと思って、僕は後に名古屋で空襲を受けるようになってからは、兄の写真の代わりにこの軍事郵便のハガキを手帳にはさんで、何時でも持っていた。このハガキは形見として、今でも仏壇に収納してある。
その当時では一般にはカメラなど全然無くて、写真といえば写真屋で写してもらうのだが、これがかなり高価のため簡単には写せなかった。
昭和19年の2月か3月頃「新学期始まっただろ、もうすぐ卒業だな」との手紙が最後となって、後は途絶えたので、南方の戦場へ向かったものと思っていた。
飛行機工場に幻滅
昭和19年4月、私は就職せずに家業に従事したいと考えたが、それは時局がら許されなかった。それならば飛行機工場が良いと思って、当時ゼロ戦を製作していた三菱重工の名古屋航空機製作所へ入所した。
その頃は、軍事工場で働く若者は産業戦士と呼ばれて、新聞・雑誌・ニュース映画等でカッコ良く扱われていた。
ところが、世の中聞くと見るとは大違い。
飛行機工場の規律は厳しかった。特に寮生活、社内の青年学校、中でも実習工場はズバヌケテ厳しかった。
「何がお国のためだ」
反感と共に、飛行機工場への幻滅を感じた。
(この時、兄が体験したであろう陸軍工廠での苦労。初年兵で満州へ渡ってからの苦労が身にしみて分かった。)
最初に見学した組立工場では、何と兵隊さんが大勢作業してみえた。「俺たち鉄砲が無いから飛行機作りよ」と気楽そうだった。
一方で勤労学徒、女子挺身隊、年配の徴用工、更に朝鮮半島から徴用された人達が、黙々と作業に従事していた。
その間を軍から派遣された監督将校が、木刀を手にして巡回していた。
驚いた事に、社内には憲兵隊詰所があって、そこには常時10人位の憲兵が常駐していた。完全に戦時体制である事を実感した。この詰所の前はなるべく避けて通った。
これはエライ所へ来てしまったと後悔したが、後の祭であった。その時すでに職場徴用されてしまって、軍需省に徴用工登録の手続済となっていた。「モウヤメタ」とは言えない状態であった。
それでも、不幸中の幸いだった事は、職種希望を聞かれた時に、現場作業には耐えられないと思ったので、製図工を希望したら治工具設計ながらも、製図工に採用された事だった。その時思わず心の中で「助かった」と叫んだ。
配属された作業計画課にも監督将校は3名いて、それぞれが課長、係長の横に机を並べていた。
その年の11月の終頃、神風特攻隊の隊員より贈られた、日の丸の横に神風と染めぬいた手ぬぐいが配られた。
この時、兵隊帰りの久野班長が
「原田君ヨウ、少年兵なんか絶対に志願などするなよ。軍隊なんか上(将校)は良いけど、下(兵隊)は地獄だ。名誉の戦死と言うのは勝ち戦の時だけの話だ。負け戦ではどんな立派な死に方をしても、所詮は犬死にだ。」と、しみじみ話してくれた。
地震と空襲
昭和19年12月7日午後1時35分頃、東南海地震が発生した。
名古屋南部工業地帯は、何しろ埋立地を造成した土地の上に工場が建設されていたので、被害は大きかった。 私の勤めていた三菱重工、大江工場でも日清紡から接収した古いレンガ造りと、 新しく急造された木造組立工場の大部分が倒壊した。戦時中の事とて、被害は公表されなかったが、特に女子挺身隊(若い未婚女性を強制徴用した団体)の人達に大勢の死傷者が出た。壊れなかった鉄骨工場でも、地盤が軟弱なため振動が大きく、 組立中の飛行機は全部ガタガタになってしまった。
地震に続いて12月13日午後1時半頃、名古屋に初めての空襲警報が発令された。 新開発されたばかりの米軍爆撃機『スーパーフォートレス(超空の要塞)』と呼ばれたボーイングB29八十機による名古屋空襲が始まった。 これを迎え撃つ我が方の戦闘機は無きに等しく、しかも性能、装備ともに劣悪であった。 高射砲(対空砲)の射程高度も8000メートルそこそこで到底勝負にならなかった。
それにも関わらず、当時の日本人は軍部によって徹底的に洗脳されていた。 陽気に
『♪天皇陛下のためならば なんで命が惜しかろう・・・』
などと、声高らかに歌っていたのだ。 数年前、世間を騒がせたオウムの信者以上にマインドコントロールされていたのだから情けない。 新聞、ラジオは厳しい検閲制度により、情報操作されていたので、国民の大多数が 『神の国、日本が負ける』などとは夢にも思っていなかった。
B29の爆撃は正確であった。初めて来襲した名古屋で、 飛行機のエンジンを作っていた三菱大曽根工場を、しかも一万メートルの上空から確実に空襲した。この日、私達の設計課では退避命令は出なかった。遠くでドッドッー、ドカッ、ドカッーと、 花火を打ち上げるような音が断続的に続いた。気がかりではあったが軍部から派遣された監督将校の手前、皆製図板に向かってはいたが製図には 集中できず困っていた。しかし、恐怖感は全く生じなかった。
続いて2回目が12月18日、昼の休憩時間の終り頃、またも空襲警報のサイレンが鳴り響いた。 結局この日、私のいた飛行機の組立工場である三菱大江工場が狙われた。なにしろ空襲の体験が 無いのだから「知らぬが仏」で、誰も怖いと言うことを知らなかった。今回は黙認されて、 皆二階の窓から首を出して、空を見上げていたが何も見えなかった。
やや時間がたってから、誰かが「敵機ダッ、タイヒー、タイヒ」と叫んで走り出したので、 皆急いで窓の横に作ってあった緊急退避用の滑り台を滑って降りた。 防空壕へ飛び込んでガヤガヤ話していたら、突然 ドッ、ドーッ、バリッ バリッ と、 ものすごく大きな音が続いた。
やがて音が止んで静かになったので、外へ出て見て驚いた。一瞬我が目を疑った。
「何たることだ」
隣の機械工場の外壁のスレートが全部吹き飛んで鉄骨ムキ出しで、中の大型プレスが丸見えではないか!!。「爆弾が落ちたのだ」と気づくのに少し時間がかかった。
数ある現場工場の中には、戦争を知らない監督将校が退避を許さなかったこともあって、この日、死者だけでも215人(戦後発表)、重軽傷者は数知れぬ状況で、地獄絵図さながらの惨状は目を覆うばかりであった。
12月22日、3回目の空襲警報が発令された。
この日は三菱大曽根工場と春日井の鳥居松陸軍工廠が空襲された。(工廠とは軍部直営の兵器工場)
年が明けて、昭和20年1月3日、4回目の空襲ではB29七十八機によって一般住宅を目標として、 焼夷弾による無差別空襲が行われた。この時、私の従姉は名大付属病院で看護婦として勤務していたが、 近くの鶴舞公園に高射砲陣地があって、その陣地から発射された砲弾の破片が、運悪く頭部に当たって重傷を負い、翌4日に花の命は蕾のまま、はかなくも昇天していった。
さきの東南海地震に追打ちをかけるごとく、1月13日午前3時半頃、三河大地震が発生した。 西三河地区では倒壊建物も多く被害は甚大であった。死者だけでも2100人余と、戦後になって発表された。 一番の悲劇は名古屋から学童集団疎開で西尾市内に来ていた児童達であった。 疎開先のお寺が倒壊したので、その下敷きとなって多くの幼い生命が失われた。
「親は死んでも子の命だけは・・・」と、願った親心が不運にも裏目に出てしまった。 彼らも陰の戦争犠牲者であった。
1月14日午後2時半頃、空襲警報が発令されて間もなく、退避命令が出た。 急いで防空壕へ飛び込んだ。今回は誰も声はなく、息すらもひそめていた。遠く低く「ウッウー」と、 猛獣の呻くような爆音だけが不気味に近づく。刻々と迫り来る地獄からの使者。 その魔の手から逃れる術はなく、ただひたすらに祈るのみであった。
長いように感じた時がたって、ついに来た。 ヒュッ ヒュッ、ドカッ ドカーッ と轟音と地響きが続いた。 「生きた心地がしない」という言葉があるが、あの時の気持ちがそれであったのだろうか。 コワイという気持ちを通り越して、ただ放心状態であった。
暫くして静けさが戻って来た。ゴソゴソと壕から這い出して、2階の事務所を見た。
「ヤラレタ」と直感した。外壁と屋根の大部分が吹き飛んでしまって、机、図面等、 すべてがグチャグチャで、コンクリートのカケラや土砂をかぶって、ゴミの山と化していた。 小型爆弾が2階の床で爆発したことが分かった。もしも、これが南へ五メートルもずれて落下していたら、 防空壕へ直撃となって命はなかった。先刻の祈りが神に通じたのだ。「ありがたい」と思った。 今もこの幸運を神に感謝している。
この日の空襲で、三菱の飛行機生産は事実上ストップした。その時すでに、東京空襲で中島飛行機の 本社工場は壊滅されていたので、日本の飛行機生産の大部分は生産不能となった。(62機来襲)
ふと
「これで、どうして戦争に勝てるのだろうか」
と素朴な疑問が湧いたが、声に出して言おうものなら、即、憲兵に連行されるコワイ時代であった。当時の三菱大江工場には、憲兵隊詰所が二か所あって、鬼と恐れられた憲兵が七,八名ずつ常駐していた。
残るは、果てしなく広がる絶望感のみ。
当時、甘木女子挺身隊員であった寺西マリ子が平和を願って詠んだ心の叫びは、半世紀余の時を経た今も、私の脳裏に色あせることなく鮮明に刻まれている。
くちなしの 花咲く夕べ 静かなり
やめよたたかい 敵もみかたも
人間爆弾
事務所が無くなったので、試作工場の片隅をベニヤで囲って、その一画を事務所として使用した。
そこで飛行機のようであって、飛行機でない物を見た。今迄話には聞いていたが、車輪の無い小型飛行機だ。本来車輪は有るのだが、その時は車輪の切り離しテスト中だった。
それと言うのも、この飛行機離陸する時には車輪を切り離して、胴体だけで飛び立つ特攻兵器であった。要するに長さ3メートル位の爆弾に、翼とロケット推進装置を付けた人間爆弾である。「秋水」とか命名されていたが、陰では「空飛ぶカンオケ」と、囁かれていた。
一旦飛び立った以上は、それが最後。運が良くて敵艦に体当たり出来れば本望。運が悪ければ水中に自爆。いずれの道も死である。戦争とは、かくも冷酷無情なものだろうか。
これが皇軍と称する天皇陛下の軍隊の、最新式秘密兵器であろうとは・・・・・。
やがて、天皇の名において、多くの若者がこれに乗って、出撃を命ぜられるかと思うと胸がつまった。
やがて敗戦
2月に入ると、各現場毎に工場疎開が始まった。私たちの課は3月下旬になって、大高の大日本紡績へ引っ越した。これを機に自宅通勤が許された。
それでも毎日のように空襲警報は聞いたが、ここなら大丈夫という安心感から、退避もせず平気だった。
5月のある日帰宅したら、姉より兄の戦死の公報が入った事を知らされた。公報によると、昭和19年9月30日、マリアナ諸島にて戦死となっていた。(正確な場所不明)
晩ご飯が済んでから、皆で仏壇の前に座って合掌をした。最初に姉が泣き出した。すると母も泣き、僕も泣いた。父はと見れば、目頭を指で押さえていた。
6月になると、ここも危ないという事になって、再度疎開することが決まった。主力組立工場が長野県下に分散疎開していたので、長野市へ行く事になった。
善光寺門前の白木屋旅館を寮として、近くの小学校の雨天体操場を借りて、そこへ又もや引っ越した。軍隊に例えれば、負け戦退却である。
長野でも毎日警報は出たが、敵機来襲は無かった。しかしその頃になると、もう敗色歴然。誰しも仕事をする熱意が無かった。
8月13日、長野市まで艦載機が来襲した。もう終わりだと思った。これ以上逃げるのには後が無い。後は日本海へドボンだけだ。
8月14日の夜、旅館の主人より明日正午、「天皇陛下の重大放送」があると教えられた。
皆で何だろうと話し合ったが、まさか終戦の詔勅とは思わなかった。
8月15日、その日はなぜか昼まで警報は出なかったが、誰も仕事は手につかなかった。昼食を早めに済ませて正午前、校内放送の拡声器を囲んで集まった。以前ならば天皇陛下の放送と有れば、当然「整列。気ヲツケ」の号令がかかるところだが、その場には監督将校が5名もいたのに、誰からも号令はかからなかった。もはや軍にも統率力の無い事を、彼らは本能的に感じていたようだった。
正午、放送が始まった。現人神(あらひとがみ)とあがめられる天皇のお言葉は、美辞麗句ばかりでむずかしかった。それでも「共同宣言受諾」とあったから「どうも降服するらしい」とは思いながら聞いた。先輩達も真剣な面差しで聞いていた。
放送の終わった時には、互いに顔と顔を見合わせて「負けたのか」「終わりか」と小声で確かめ合っていた。
その時、監督将校の光石中尉が「日本国負けたり。日本国負けたり。」と叫んで右腕で顔を押さえて、男泣きに泣き出した。これを聞いて、皮肉にも全員の顔にホッとした安堵感がただよった。
無謀な戦争
かつての戦争が自衛戦争だったのか、侵略戦争だったのかは、議論の尽きない問題である。
自衛戦争だとしたら、戦死した兵士は天皇陛下の命令によって、国のために戦って名誉の戦死をした事になるのだろうか。
それにしても、兵士の末路はあわれであった。戦いたくとも撃つべき弾丸は無く、喰うに食する糧は無く、戦わずして精根尽きはたし、遠い異国の名も知れぬ山河に骨を埋めた兵士は、数知れずあった。
とにかく、兵士も国民も真の戦争目的は知らずに、軍部の言うがままに「陛下のため、国のため」と、ただ一筋に戦った事は確かであった。(皆ダマサレテいたのでは・・・・・?)
しかし、その結果は敗戦であった。たとえ戦争に負けても、日本の国名が抹殺されて、アメリカ合衆国に合併された訳では無く、又その属国にされる事もなく、完全なる独立国家として存続を許された。
更に天皇を絶対主君とする軍部独裁政治から解放された。その上、戦争放棄を規定した平和憲法と、それに保障された自由民主主義を与えられた。
その結果、現在の平和と繁栄がもたらされた。
戦争でで失った損害、犠牲はあまりにも大きかった。戦死者だけでも約200万人である。
沖縄戦、それに続く本土空襲による国民の財産的損害も莫大であった。空襲による死亡者60万人余、外に沖縄戦による死者9万余と聞いている。(これは虐殺されたも同然・・・・・?)
戦争の被害は国内だけに限らず、海外においても多大な迷惑を発生させている。たとえ自衛戦争だったとしても、それを海外へ遠征して戦ったのは、いささか過剰防衛だったと思うが、第三者に対する加害者責任は当然である。反省と誠意が必要だと思う。
その反面において、広島、長崎に対する原爆投下及び、日本兵士がシベリアに戦後長く抑留された事に関しては、今後機会ある毎に抗議すべきだと思うが・・・。
もしも、あの戦争で日本が勝利を得ていたとしたら。軍部独裁政治は今日迄続いて、国民生活はかなりの圧迫を受けていたはずだ。おそらく今日のような、恵まれた平和日本は実現しなかったと思う。隣国の戦勝国である中国、ロシアの国民生活を想像すれば、どちらが良いか一目瞭然である。かえって負けたのが幸いだった。
思えば、全く何の利益も無い無謀な戦争であった。
平和憲法を大切に
侵略戦争が人道上、許されない近代の戦争においては、戦勝国にも何等の利益は生じない。しかし困ったことに「戦争で金儲け」の出来る戦争仕掛人が、世界各地にいるらしい。
現在世界各地で民族紛争が続発しているが、そこで真剣に戦争している人達も、陰で糸引く戦争仕掛人に利用されている事に気づいていないのが、不幸の最大原因だと思う。
武力衝突を、武力で介入して解決する事は難しいことと思う。その武力介入を内心喜んで待っている仕掛人がいるとしたら、彼等の思うツボである。
燃え上がった火の手は押えなければならないが、一歩進んで肝心な火元となる武器供給元を調査して、そこに何等かの対策を打つべきだと思う。
同じ人間同士、お互い誠意を持って話せば解るはずだ。「昨日の敵は今日の友」である。かつてわが国日本も「鬼畜米英」と罵り「一億玉砕」を叫んで戦ったが、力尽きて降参してみたら、意外に相手は仏様であった。
人間感情の動物である「愛と憎しみは紙一重」とか、会話の重要性を痛感する。
自衛隊の海外派遣よりも、このような重大な調停役を積極的に買って出る事こそ、世界平和に貢献する日本の行くべき道だと思う。
日本の政治家は、誰とでも妥協し握手できる才能を持った名人が多い。この面での活躍を望みたい。
せっかく今まで続いた、この平和を大切にしたいと思う。もう戦争はコリゴリだ。子、孫の代までもさせたくない。
したがって、日本が国連の常任理事国となる事には賛成したくない。又自衛隊の海外派遣にも反対をしたい。
現在の憲法は、戦後アメリカから押し付けられた物であるが、中身はなかなか上等だ。それをワザワザあちら様のご機嫌を取って、こちらから改正する必要は無いと思う。
あくまでも、現在の平和憲法を大切に守っていきたいと思う今日この頃である。