かねてより、私は航行中の孤独で厳しい人生最終航路が終わり次第に、人生航海(後悔?)日誌のようなものを書き残したいと思っていた。

 

 そんなおりに、碧南市民図書館友の会が春日井市の『日本自分史センター』見学会を企画されていることを知ったので、さっそく申し込みをした。当日(H12.6.29)は小雨模様であったが、かえって暑くなくて快適な見学会となった。

 

 春日井市は小野道風の生誕伝説に因んで『書のまち春日井』をキャッチフレーズにしているだけあって、自分史センターの建物は4階建で大きくスマートだった。正面玄関を入ると吹き抜け構造で、開放感のある大ホールには驚いた。聞けば昇降式ステージを備えた多目的な交流アトリウムとなっており、ギャラリー、視聴覚ホールなどを含めて『文芸館』と呼び、3・4階の図書館と併せて、この大きな建物全体を『文化フォーラム春日井』と称する複合文化施設となっている。

 

 階段を上がった二階の一角が自分史センターである。開設して日が浅いせいか、全国から送られてくる自分史の整理が追いつかず、開架できずに書庫で保管されているものも数多いとか。それでも以前碧南市に在住されていた、鳥居亨子さん出版の自分史『夢採集』も書棚に開架されていた。

 

 収納されている図書の中に、製本を業者任せでなく、オリジナルと思われる本を見た時には「これぞ、本物の自分史だ」と心温まるものを感じた。発行部数もわずか十数冊のものもあるとか。

 

 作品のジャンルに制限はなく、人生記録に限らず、論文、小説、写真集、絵日記、歌集など、本人が『これぞ自分史』と思うものを2冊寄贈されるならば、1冊を書棚に開架して、1冊は書庫で永久保存されるとのこと。

 

 センターでは、定期的に自分史講座を開催し、出版予定者には個別相談にも応ずると聞いて、嬉しい希望が湧いてきた。

 

 悔い多き人生記録となるか、悔いなき人生記録となるかは、未だ未知数であるが、『終わりよければ全てよし』とか、願わくば悔いなき人生航海日誌を完結したいと念願し、最終航海の舵取りに専心すべく思いを新たにした。

 

 昼食は市役所12階の、見晴らしの良いパノラマ大食堂で会食し、午後は小野道風記念館を見学して帰路についた。

 一昨年暮れのこと、社会構造の不合理な歪みに押しつぶされそうになって、ともすれば生きる希望を失いかけていた矢先に、一番心の許せる友から星野富弘の詩画集カレンダーを贈られた。

これは、星野氏が手足はあっても形だけで、首から下が麻痺して全然動かないので、口に筆をくわえて、絵も詩も日付の数字もすべて口書きされたものであった。

 

 同時に「この本読んでみて」と言われて、同氏の9年余にわたる入院闘病生活を綴った『愛、深き淵より。』という本を貸してくれた。むさぼるようにして一夜で読みきった。その後、数回読み直す度に深い感銘を受けた。そして私は『強く生きる』ことを氏と友と我が心に誓った。

 

 星野氏は1970年大学を卒業して、ある中学校に体操教師として就職された。わずか2か月たった頃、床体操の練習中、踏切り板を思いっきり踏んで2メートル程ジャンプして、回転に移ったところで運悪く着地に失敗、頭から墜落して頚部骨折の重傷を負ってしまった。以来、重度障がい者となって4年4か月寝たきり。初めて病院特注の車椅子に乗って、お母さんに押されて病院の廊下を往来した時には最高に嬉しかったと語られる。

 

 ある時、口で文字を書くことを思いつき、苦しい練習を続けること4か月。73年3月に初めて念願の手紙が書けた。

 

 その後、水彩画にまで挑戦されたが、これは至難の業だったと思う。絵の具の調合も筆に水の含ませ加減も、キャンバスを支えるのも、全部お母さんの献身的な協力を得て、筆を口にして描き、それに詩を書き足したりして、苦しい努力を重ねられた。

 

 79年春、近くの身障者センター所長の強い勧めで、センターの廊下で絵の展覧会を開催した。反響は想像以上に大きく、新聞社やテレビ局が取材に来る程の大盛況であった。

 

 この成功により、氏は周囲の人々や母の深い愛に目覚め、再生の勇気を一段と高められて、1981年1月『愛、深き淵より。』を出版された。

この出版の成果も大きく、ロングセラー人気は今も衰える事なく続き、増刷は近く150版に及びそうな状況である。

 

 昨年暮れにも、友より詩画集カレンダーを贈られたので、狭いながらも我が家の応接間兼居間に飾った。朝な夕なにそれを見る度に、新たなる『生きる勇気』を与えられ、友の優しい心づかいに感謝している。

 

平成16年16日 記

 

 現在の居宅を建築したのが、昭和47年オイルショックのトイレットペーパー騒ぎの時期であった。折からの狂乱物価と資材不足だった。地震対策のために構造を鉄骨にしたのは正解であったが、車庫の屋根をブリキで貼ってしまったのが大きな間違いであった。以来5,6年毎に塗装の塗り直しが必要である。無理してステンレスを貼っておけば後は世話要らずで楽だったのに、と悔いられる。

 

 昨年10月の初め頃、ベランダに出て驚いた。コールタールがはげ落ちて地肌のサビ止め赤ペンキがムキ出しであった。費用節約のために、今回初めてシルバー人材センターに依頼をした。数日後、所長さんと作業担当の永坂さんが現場確認に来訪された。そしてベランダの防水塗装と建物の外壁塗装も勧められた。ベランダの防水は好都合だが、外壁となると足場の問題が生じる。北側だけは足場が必要だが、パイプで組むと高くつくから丸太で組めば十万円以下で済む。よかったら安い業者を紹介すると言うので、全面的にお願いする事にした。

 

 2,3日して永坂さんが来て「今日からかかります。まず外壁の足場のいらない所からいきます。4,5日すれば足場の業者も来ますから」との事。「ハイ、お願いします。少しぐらいならお手伝いしますから」とお愛想を言ってしまったのがちょっとまずかった。

 

 10時少し前、休憩のためにお茶をすすめたら「ペンキ屋ですから手が汚れていますので、お茶は戴かない事にしていますので、おかまいなく」と言って全然休憩なしで作業を続けられるのには敬服した。この永坂さん、かつては左官屋さんだったが建築様式の変化に連れて左官仕事が無くなってしまったので、ペンキ屋に転向したとかで、屋根瓦の漆喰のはがれた所も壁の傷んだ所も全部修繕されるので重宝であった。

 

 翌日のこと、永坂さんのペンキ塗りを見ながら雑談していたら「原田さん、ベランダの手すりにブラッシングして」と言われる。「いいですよ」と答える。「じゃあこれで」と言って繊維状のビニールが複雑に絡み合ったマジックブラシを渡される。これは重宝だった。塗装面を傷めずに表面のよごれが綺麗に落ちる。

 

 午後になって、

「ついでにペンキ塗っちゃって」ときた。

「えっ僕が」と言うと、

「今までに塗った事あるでしょう」

「あるにはあるけれど」

「じゃあ頼むわ。あと予約も込んでるし」

「ではヤッテみますか」と言いながら塗り始める。

近くに話し相手がいるので退屈せずに遊び心で塗れる。

夕方になって永坂さんが刷毛を洗いながら

「原田さんペンキ塗りうまい訳だ。刷毛使いが上手だから」と褒められる。

「なぜ分かるの」と聞く。

「刷毛をみればすぐわかる。素人は刷毛をゴシゴシこすって丸坊主につぶしてしまうから

「へえ、そんなもんですか」

「明日は車庫の屋根たのむわあ」これには一瞬たじろいだ。

「コールタール苦手だなあ」

「原田さんローラー刷毛得意でしょう」

「それ程でも無いけれど、物置と車庫の鉄骨部分に錆止めペンキを塗って欲しいから、やりますかあ」と元気のない返事。

 

 その翌朝、定刻通り8時十分前に永坂さんの車が来た。実に几帳面な人柄だ

「原田さん、車庫屋根お願いできる」

「ハイ。いいですよ」と腹を決めて答える。

本来はこのコールタールがいやでシルバーさんに頼んだのに、自分で塗るはめになろうとは、人生一寸先は闇だ。自分自体の気持ちの変化すら予測できない始末である。永坂さんもコールタールはいやだろうし、他に面倒な仕事を色々頼んだから仕方ないかと我が身に言い聞かせて塗り始めた。幸いこの屋根の外周はハチマキ構造になっているので、地面に落ちる心配はないので安心だ。少し塗っては永坂さんのところへ行って雑談しながら自分だけ休憩をとる。 また少し塗っては休憩雑談を繰り返していたが、午前中に楽々と仕上がった。

 

 父が生前中に「仕事は大勢でせよ。ウマイものは小勢で喰え」と、よく言っていた事を思い出した。本当に自分一人だけでは手すりも屋根も塗れなかったと思う。永坂さんのおかげで家全体の化粧直しができてスッキリしたし、諸経費が大幅に割安にあがった事は苦しい我が家の家計にとって大助かりであった。

 

◎永坂さんに聞いたペンキ塗りの要点

①従前が油性なら油性で、水性なら水性で同種類がよい。異種類を塗るとはげやすい。

②ペンキが残った場合は、缶のふちと蓋の裏面接合部分を綺麗に洗って、空気の入らないように完全密封する事。洗い液が缶に入っても差し支えなく気化予防できる。次回使用する時にペンキが薄かったら、少し空気にさらせば直ぐに気化して濃くなる。

③原則として接着用ノリ液は惜しまず使用した方が得策。

④シンナーはガソリンと灯油を調合したもの。

⑤うすめ液はシンナーと全く同じで、ペンキ会社の買わせるための詐欺的用語。

 

 生活水準が向上するに連れて、困ったことに家庭内においては家族の絆ともいうべき信頼関係が薄れ、様々な問題が発生しているのではなかろうか。我が家でも幾つかの難問をかかえているが、適切な解決方法が見つからず頭を痛めていた。

そんな折りに一人の友人から文芸春秋の創刊八十周年記念臨時増刊号『家族の絆』を勧められた。各界の名士百十八人による家族の物語である。

 

 松田妙子工学博士は、

 著書『家をつくって子を失う』を昭和五十七年に出版以来、子供部屋が勉強部屋の名のもとに、密室化するのが親子断絶の始まりだと警鐘を鳴らし続けられているが至極正論であろう。

 

 塾教育学院の長田百合子女史は、

 25年間引きこもりの子どもたちと関わってきた経験から「子育てなんか下手くそでいい。但し自信と動かぬ信念を持つべきです」と断言されているのは簡潔で分かりやすい。

 

 電気通信大学の中島義造教授の、

 「家族至上主義を粉砕せよ」は異色で逆説的だが、人生の達観者かも知れない。教授は家族に対し無限小の期待値しか抱かず、妻に「良妻賢母」は望まないし、息子に「立派な人に」なって貰おうとは思わないと明言される。氏は現在東京で単身、家族はウィーンで国際別居中だが、正月、クリスマス、誕生日には家族一緒で祝い、息子の学校の父兄会にはほとんど毎回出席される。これも経済的に余裕があればこそであるが。

 

 とにかく、執筆者が多彩なだけに内容が甘口から辛口まで、幅広くどこからでも気楽に読めて、考えさせられる一冊であった。ぜひ一読をお勧めしたい。

 

 

  碧南市には全国的にも珍しい「哲学たいけん村無我苑」があって、先日(01年11月4日)村民の野外研修会が開かれたので、村民である私も昨年に続いて二度目の参加をした。当日は瑞浪市の化石博物館、岐阜県陶磁資料館、永保寺などの見学、参観であった。

 

 長さ七、八十mもある化石の地下壕では、壁や天井の随所に多くの貝殻化石が自然のままに露出しているのを、目の当たりにした時、一瞬「どうしてこうなるの」と、頭の中がクルクル舞いをしてしまった。

 

 瑞浪市は、山の中の街にも関わらず、なぜ『水』に関連した地名がついたのか、長い間疑問を抱いていたが「なるほど納得」である。瑞浪市一帯はかつて二千万年ぐらい前の大昔には海底であった地面が、長いながい時間をかけて、自然に隆起して陸地を形成したものである。このことは、他にも市内各所で今も発掘される千種類にも及ぶ海中動物の化石が証明している。

 

 関連施設の地球回廊では、誕生以来四十六億年の、地球と生物の進化の歴史を見て、今更ながら地球の神秘、自然の驚異の偉大さに感嘆した。それにつけても、『かけがえの無い、この地球』を大切にしなければとの思いを新たにした。

 

 この研修に参加した影の目的は、昼食にかねてより評判を聞いていた『献上丼弁当』を、土岐市の「道の駅 どんぶり会館」で食べてみたい好奇心が強かったからである。

 献上丼弁当の由来は、丼弁当がどこかに献上された訳ではなく、この地方は古来より美濃焼の産地で、信長の時代になって良質な丼の生産が定着したので、以来信長、秀吉、家康に献上されて献上丼の名が高まった。

 

 ドンブリ会館は、何かにおいてユニークだ。その名のとおり形はどんぶりを連想する丸型で、ドーム型の丸屋根である。二階のレストランは、360度展望が利いて、天井が張っていないので、頭上は大きな乳白色のコウモリ傘を広げた感じで、解放感がすこぶる良い。遠く日本アルプスの山並みを眺めていたら、UFOにでも乗って空に浮いているような錯覚を覚える。

 

 さて、その丼弁当であるが、幕の内弁当に付いているような具を、ご飯の上に乗せたどんぶりが、紙製ながら黄金色の重箱風の箱に収められて出て来る。見ただけでも何となくお殿様気分になれて、心がはしゃぎ楽しくなって来る。味付けは私好みの濃い口で、すこぶる上々であった。売店横の休憩室の眺めは絶景であり『デラックストイレ』もあって、気配りが利いている。極めつけは、帰り際に『献上丼』の新品を化粧箱に入れて、おみやげにくれるのが心にくい。

 近くの稚児岩大橋近辺は、県下でも有数の景勝地とか、行楽のついでにちょっと足を延ばしてみるのも一興かと思う。

 

 午後は、岐阜県陶磁資料館を見学して、帰り道で多治見市虎渓山の永保寺に立ち寄った。永保寺は臨済宗の名刹で格式も高く、庭園も広大で国の名勝に指定されている。国宝の観音堂(本堂)はさすが歴史の重みを感じる。「二重にご縁がありますように」との願いを込めて、お賽銭を二十五円上げて お詣りした。

 

 景観のよい愛岐道路を、走行できなかったのはちょっと残念であったが、秋の良き一日であった。  

 

  

                                           

                                                      平成 十一年十二月四日   記

 

 長い間、自動車運転免許証の書き換えの度に、交通安全協会に協力費の名目で数百円ではあるが、手数料を取られるのが面白くなかった。

 

  本来ならば、更新申請用紙は警察署交通課の窓口に、常時置いてあるのが当然だと思う。しかし、それがなぜか安全協会に独占保有されているのだ。どうも癒着のような気がしてならない。

 

 四、五年前までは、更新請求の窓口は安全協会だという既成事実があった。用紙さえあれば、記載事項なんて簡単なことで誰にだって書ける。用紙が無い以上、申請書を自分で作成することは困難である。不本意ながら更新申請書を安全協会に作成して貰うのだから、作成手数料として請求されるのならば納得せざるを得ない。しかし、そのような独占的営利行為は財団法人たる交通安全協会には許されていないし、他の法律にも違反となるので、名目を協力費にすり替えて半強制的に徴収されるのである。一種の詐欺行為のような気がしていたが、僅かな金額だから「マッ、イッカ」と諦めて支払っていた。

 

 前回(平成八年)の書き換えの時には、窓口が警察署に変更されていた。「やれやれ、これで協力費を取られずに済むわい」と思ったのは早とちりだった。交通課の窓口には安全協会の女性職員が座っていて驚いた。「癒着だあ!これはぁ、ダメだぁ」と思ったら、案の定、規定手数料の他に「安全協力費○○円をお願いします」ときた。受付嬢がちょっと美人だけに「NO」と言うのに強い抵抗を感じたが、勇気を出して「その協力費、強制ですか」と聞いたら「いいえ、任意ですよ」と案外さらりとした返事であった。「では、辞退します」と言いながら一万円札を出せば「ハイ、結構ですよ」と釣り銭と領収書を渡された。

 

 本年七月、運転免許証の更新通知書が届いた。それには更新手数料二千二百円、講習手数料七百円、合計二千九百円と明記してあるだけで、協力費については何も記載されていないのを確認して今回は考えた。ポロシャツのポケットに三千円だけを入れて警察署へ更新手続きに行った。受付はやはり安全協会の女性職員である。受付手続きが済むと、「更新手数料二千二百円、講習手数料七百円と、安全協力費六百円、合計三千五百円お願いします」と言われたので「アッ、困ったぁ、ハガキに二千九百円と書いてあったので、三千円しか持っていないんだけど」と言いながら千円札三枚を胸ポケットから出すと「ああ結構ですよ、協力費は任意ですから」と至極あっさりした対応である。殊によると、安全協会側も協力費徴収に後ろめたさを感じつつも、「取れるものは取り得」と言った魂胆ではなかろうか。

 

  この時、後ろにいた品の良い中年女性が「あら、協力費って、払わなくてもいいの、それなら私もご辞退するわよ」と、明るい声でおっしゃった。頼もしい味方の出現で嬉しくなってきた。 

 

 視力検査と写真撮影が終わって、新免許証が交付される時に「古い免許証の写真、記念に欲しいんだけど、戴けませんか」と係官に頼めば、「あぁいいですよ」と気軽に言いながら、パンチで穿孔して免許証を返してくれた。これで良い記念品ができたし、「協会費は強制ですか」とか「辞退します」などと、言いにくいことを言わずに済んで気分爽快であった。

 

 

          ※平成11年に発表した記事です。現在は改善がされている様子。    

 長い間、S保険代理店を通じて、M火災保険会社と自動車、居宅に関する保険契約を継続してきた。

 

 ところで平成九年夏、人身事故にあって半年程通院した。搭乗者保険が掛けて有ったので、その保険金が支払われるのではないかと思ってS代理店に相談したら「お宅は事故の被害者ですから、治療費その他補償金は全額相手方の自賠責保険から出ますので関係有りません」と言われたので「ああ、そうか」と思って軽く聞き流していた。

 

 その後、事故体験者同士でいろいろ話し合っていると、「貰える」とか「貰えない」とか、どうもはっきりしない。「しかし貰える場合もあるらしい」そこで直接M保険会社へ電話して聞いてみた。

 

 「貴方から支払い請求が出れば、通院手当としてお支払いしますよ。請求されるのでしたら必要書類を送りますが」とのこと。結局搭乗者保険は過失責任に関係なく、入院とか通院したときには、その日数に応じて支払われることが分かった。

 勿論S代理店としても悪気があってウソをつかれた訳ではないが、ちょっと勉強不足であったと思う。

 

 一方M保険会社には事故直後に代理店を通じて事故届けが提出してあるのだから、会社の方からしかるべく指示があって当然だと思うけれど、今の世の中そんなに甘くないようだ。もしあのとき電話をしなければ貰わずじまいだったかも知れない。

 

 保険証書には「通院日額一万円支給」と印刷されているが、現実に支給されたのは五割以下であった。「なぜか」と問い合わせたら約款書に傷害の程度及び回復に連れて減額すると記載してあるとか。約款書の文字など小さすぎて虫眼鏡を持って来ても分かったものではない。それならば「最高一万円」と明記すべきだと思う。何となくインチキ商法に引っかけられた感じである。おりしも昨日CBCテレビがニュースワイドで、「損保会社が保険金を払い渋り?」と題して放映していたのを見て「やっぱり、そうだったのか」と不信感が高まった。

 

 先日火災保険の更新期日が到来したが、さきのM保険会社の対応に失望していたので、県の火災共済に切り替えてしまった。面倒かと思った申し込み手続きも銀行窓口で案外簡単であった。二年目からは自動継続で掛金(保険料)は口座振替にしたので後は用なしで簡単である。

 

 それよりも大きなメリットは、掛金が火災保険と比べて段違いに安いことだ。木造住宅の場合で保険額一千万円につき掛金八千円である。(保険会社では一万五千円位)家財道具に関しても同率。衣料品は高級品でも補償されるが、書画・骨董・宝石類は対象外となるので要注意。しかし我が家にはそのような「お宝」は存在しないので差し支えはない。

 

 聞くところによれば、万一火災が発生した場合の損害金額の査定に関しても、保険会社より大分甘いようだ。それに掛金の安いのも、営利を追求しない共済制度なればこそであろう。

世間では「安かろう、悪かろう」とよく言われるが、県が管理運営しているのだから間違い有るまい。