占星術によると、人生最初の転機は、十五歳くらいに来るらしい。
大抵の十五歳は、高校受験を控え、自分の進む道を真剣に考える頃。
だけど、私はちょっと違った。

前の記事でも言った通り、私は人の先に立ちたい子だった。
だから、中二の終わり、生活委員になり、委員長に立候補したが惨敗。
今思えば、何故生活委員だったのか、不可思議。
おそらく、前の生活委員長が女子だったので、私でもなれると思ったのだろう。
だけど、そうじゃない。あれは神様の導きだったと、今でも重っている。

 

生活委員長が転校することになり、補欠選挙を行うことになった。
私は意気揚々と立候補した。立候補は私一人。推薦もなかった。
あのときの緊張と不安は、一生の記憶ものだね。
これで私が、いよいよ委員長になるんだって。

でも。
信任投票で、不信任の方が多かったので、私が委員長になるのは、いったん白紙に。
その時私は思った。
もう一生、立候補なんかするものかと。
どうも私は、白黒が極端でいけないね。
グレーにもならないと。

 

それはともかくとして。
委員長選は、候補者がいないまま、翌日にまでもつれ込んだ。
そして、夜も更けた頃、三年生の先輩が挙手して言った。
「僕は、水無月さんを推薦します!」
その先輩は、もうここまで来たら、やる気のある人にやってもらうのが一番だみたいなことを言った。
そして、彼の近くの席にいた男子達が「僕も推薦します」「僕も」と言い出した。
そこまで言われて、引き下がれない。
私は再度立候補して、見事、委員長の座を掴んだのだった。

私は、これからの期待と不安を胸に。
教室の黒板に書いて帰った。
「新生活委員長 水無月美伊」
って。

 

生活委員長としての最初の試練は、その翌朝にあった。
私が昨日書いた黒板に、
「できるか」
「うそでーす」
と、書き加えられていたのだった。
私は泣いた。
だけど、こんなことで泣いていたら、生活委員長など務まらないのだよ、美伊さん。
あの日の私にそう言いたいな。
もっともっと、辛いことが待っているのだから。

 

まず、三月に委員長になった私は、四月に、一年間の活動計画を書いた。
それをまず委員全員に承認してもらい、評議員に承認してもらい、前項に承認してもらうというプロセスがある。
まず、委員全員分の活動計画を印刷した。
その頃はコピーなんてないんだよ。
あったけど、生徒は使わせてもらえず、謄写版印刷機という、プリントゴッコのどでかいのみたいなので、一枚一枚刷った。
私が委員長になった初めての委員会の直前、生徒会室に置いといたそれを取りに行ったら。
ない。
なくなっているのだ。
あれは絶対、誰かが私への嫌がらせで捨てたんだと、今も思っている。
かくて、最初から遅刻した委員会。
幸先悪かった。

 

そして、その活動計画を刷り直し、次の委員会で質疑応答などをした。
生徒会の進行計画上、絶対にその日のうちに承認をもらわないといけない。
だけど、急いで書いたその活動計画は、誤字脱字だらけ。
それに、前の委員長のをまねして作ったから、質疑応答にも満足に答えられない私。
結局、その日のうちには承認されず、週末に臨時委員会を開いて、なんとか承認してもらった。

次に、評議員会。

 

生活委員会は、集中攻撃を受けた。
他の委員会の委員長は、
「今質問が出ておけば、全校集会では出ないから」
と、私を励ましてくれたが、あれだって、いじめの一種だと私は思う。
私はいじめられっ子だったから。
そして、ある評議員が言った。
「さっきから生活委員ばっかり質問が出てるけど、委員会で本当に承認されたとは思えません」
と。
これに私は切れた。
あんなに苦労して作った活動計画、あんな思いをして承認をもらったのを、そんな風にけちつける?
私が喧嘩腰で、
「ちゃんと承認されました!」
と叫ぶと、他の委員長達が青くなって、
「喧嘩腰になっちゃだめだよ」
と言ったが、ここで切れるなという方が無理な話。

そして、委員長になってたった一ヶ月で、あらゆる辛酸をなめてしまった美伊さんの奮闘記は、
なんと次回へ続くのだったσ(^_^;)