早足で歩く隆について行くのは大変だった。
「ここにしよう」
 一軒の喫茶店の前で、隆は止まった。
 それまで、二人は一言も口をきかなかった。
 隆が怒っていることを、千晴もうすうす感じていた。
 無理もない。隆の送別会をこんなことにしてしまったのは、千晴なのだ。
 隆は、ドアを開けて中に入った。千晴も続いた。
 テーブルに向かい合う。
「コーヒーでいい?」
 隆の問いに、千晴は頷いた。
「すみません、コーヒー二つお願いします」
 お冷を持ってきたウェイターに、隆は言った。
 不自然な沈黙が流れたが、誘ったのは隆なのだ。それに、いつもの明るい隆とは違う。それを雰囲気で察していた千晴は、黙ってお冷を飲んだ。
 やがて、隆が切り出した。
「どうしたら、あそこまで性格悪くなれるの?」
「――!」
 隆の言葉は、千晴にこたえた。隆が、他の女の子にはあんなに明るく優しくしている隆が、千晴にはこんな冷たい言葉をぶつけるなんて。
「……どうして?」
 千晴は、震える声で言った。
「今日のことは、みんな私が悪かったっていうの?」
 千晴はただ、みんなから村八分にされたことが悲しくて泣いただけなのに。
「悪いのは、千佳さんや由季さんじゃない!」
「そこがいけないんだよ」
 隆は、突き放すように言った。
「どうしてそんな風に、友だちを悪者にするの?」
「だって――」
「心配してくれた中原さんにまで、あんな風にして」
「それは……」
 返す言葉を探していると、コーヒーが運ばれてきた。
 千晴は砂糖とミルクを入れたが、隆はブラックで飲んだ。
 隆は、カップを置きながら、なおも言う。
「こんな風になっちゃったのだって、杉本さんに原因があるんだよ」
「そんなの、わかってる!」
 何をわかっているのかわからないけど、千晴はそう言っていた。
 隆は吐息した。
「まあ、みんなも悪いけどね。でも、杉本さんが変わらなきゃ、みんなは変わらないよ」
 千晴は、眼鏡を外した。泣くのに眼鏡が邪魔だったからだ。
 ハンカチを出して、涙を拭った。
 そして、顔を上げると、こんなことを言ってしまった。
「安藤さん、私と石坂さんと、どっちが好き?」
 急に話題を変えて怒られるかと思ったけど、隆はちゃんと答えてくれた。
「うん。そのことも言わないといけないと思ったんだ。それでここに来たんだ。――俺は、石坂さんと付き合うつもりだよ」
「どうして? 石坂さんは、人が傷つくこと平気で言うのよ!」
「杉本さんだってそうでしょ? さっき杉本さんが言ったこと、石坂さんが知ったらどういう気持ちになると思う?」
〈さっき言ったこと?〉
 ――何がショックで来れないよ! 同情引いてるだけよ!
 千晴の瞳から、再び涙がこぼれた。
 失恋したからではない。
 隆に幻滅したのだ。
 こんなに好きな隆は、こういう綺麗事を並べて、自己満足する人だったんだ。
 そして、そう思ってしまう自分が悲しかった。
「私、帰る」
 千晴は、テーブルにコーヒーの代金の五百円玉を置くと、立ち上がった。
「かなりきついこと言っちゃったけどね」
 隆は、おごってさえくれない。お金を受け取った。
「わかってほしかったんだ」
 千晴は、返事をしないで、一人店を出た。
 送ってもくれないんだ。
 少しでいい。優しい言葉や態度がほしかったのに。

     *

 一方、健人と一緒に会社の駐車場まで来た圭子は、健人に言われるままに、健人の車に乗った。
「少し休んでいい?」
「うん」
 圭子がシートベルトを締めようとした時。
「……ねえ、中原さん」
「うん」
 圭子は、健人に向き直った。
「その後、あの榎本とかいう人とは?」
 健人が、章のことを話すのは、あのファミレスでのことがあった次の日以来、初めてだ。
「もう、何も」
「そう。――あの人とは、何もなかったの?」
「何もって?」
「こういうこと」
 次の瞬間。
 健人の腕が、圭子の体を引き寄せた。
「広瀬さん――?」
 次に、健人のもう片方の手が、圭子の髪を撫でる。
 健人の目が、圭子の顔を覗き込む。
 ふたつの唇がまさに触れ合う、その直前に、圭子は我に返った。
「いやっ!」
 圭子は夢中で、健人の腕を振りほどこうとした。
「離して!」
「ごめん、驚いた? 何もしないから」
「どうして?」
「大丈夫。何もしないから、少し静かにしてて」
「……」
 本当に、何もしない?
 圭子は、抵抗するのをやめた。黙って、されるままになっていた。
 何も聞こえなかった。健人の息遣いと鼓動以外。
 圭子は不思議な気持ちで、目の前で揺れるネクタイを見つめていた。
 どのくらい、そうしていたんだろう。
 健人は、ゆっくり手を離した。
「――ごめん」
「……」
「送るよ」
 健人は、エンジンをかけた。
 圭子は、まだ信じられなかった。健人がこんなことをするなんて――。

     *

 その翌日は祝日で、そのまた翌朝。
 千晴が重い気持ちでオフィスに行くと、案の定、みんなの視線が痛かった。
「おはよう」
 背後から声をかけられ、振り向くと、隆が、いつもの笑顔であいさつしてくれていた。
「おはようございます……」
 千晴はいたたまれない気持ちで返事をすると、自分の席に着いた。
 あの笑顔に騙されてはいけない。
 隆は、偽善者なのだ――。 

 千晴が配属になっているシステム開発部では、いつの間にか、女子の新入社員が、その島のお茶を入れることになった。
 毎日当番を決め、当番の島が朝の九時半と午後の二時半になったらお茶を入れ、当番の島のお茶くみが終わると、次の島が順番にお茶を入れるのだ。
 その日、千晴の島はお茶くみが最後だった。
 当番の島は、社員が忙しかったのか、お茶を入れるのが三時過ぎになった。
 当然、その分他の島もお茶を入れる時間がずれる。
 千晴がデスクでおとなしく仕事をしていると、千晴の向かい側の席の細田知美が、PCルームから戻ってきた。入社二年目、千晴より一年先輩だが、年は千晴より一つ若い。
 その知美が、千晴に言う。
「まだお茶の順番来ないの?」
「はい、すみません……」
「もう四時になるんだよ。あと一時間で定時だよ。まだお茶が入らないなんておかしいじゃない」
「……」
 そんなこと言われても。千晴のせいじゃない。
 その時。
「杉本さん、お茶入れていいよ」
 隣の島の子が呼んでくれたので、千晴はほっとして給湯室に行った。
 すると。
「手伝ってあげる」
 知美がついてきた。
 千晴は知美が苦手だったので、一人で入れたかったのだが、そうもいえずに、知美と一緒にカップを出した。
 そして、今日は紅茶にしようと、紅茶も出した。
「丸山主任にはコーヒー入れてあげて」
 知美が言うので。
「じゃあ、紅茶やめてコーヒーにします」
「私、コーヒー嫌いなんだけど」
「……」
 千晴は少し考えて、
「じゃあ、細田さんは紅茶飲んで下さい」
 そう言うと、知美は顔色を変えた。
「みんなに同じもの入れなきゃだめじゃないの!」
「えっ……」
「私だけ紅茶なんてやだよ!そんなんだったら、私の分は入れなくていい!」
「でも……」
 それでも千晴が、知美のカップにティーバッグを入れようとすると。
「いいって言ってるでしょ!」
 知美は自分のカップを棚に戻すと、憤慨して給湯室を出ていった。
 そして、廊下で誰かに会ったらしく、興奮した声を出している。
「ちょっと聞いてよ! 杉本さん私のお茶入れてくれないんだよ! 片づけだっていつも私にやらせて!」
 それを聞きながら、千晴は一人吐息した。
 片づけだって、いつも千晴がやろうとしている。
 それなのに、知美が来て、
「私がやる! 杉本さんはいいって言ってるでしょ!」
 と。押し切ってしまうのだ。
 まるで、千晴を悪者にして喜んでいるようだ。

 お茶を配り終わり、トレイを戻しに事務所を出ると、隆と会った。
「杉本さん、細田さんにお茶出した?」
「えっ……」
「細田さん先輩なんだから、無視しないで入れなきゃだめだよ。あと、片づけもやらせない方がいいよ。杉本さんの方が年上だけど、先輩は先輩なんだから」
「う、うん……」
 千晴が曖昧にうなずくと、隆は去っていった。
 そして、給湯室で、しばらくぼんやりしていた。
 大好きな隆にあんな風に言われるなんて、ショック以外の何ものでもない。
 きっと知美は、千晴の悪口を吹聴して回っているのだろう。
 それが隆の耳に入り、鵜呑みにした隆が忠告してくれたんだろう。
 ――でも。
 隆にはわかってほしかったのに。
 仕方ない。
 この間のことで、隆は偽善者だということがよくわかったから。
「あれ、杉本さん」
 呼ばれて振り返ると、そこに瞬が立っていた。
「岡林君」
「どうしたの、ぼんやりしちゃって」
「うん……」
「気にしてるんだね。細田さんたちのこと」
「えっ……」
「杉本さんは、何も悪いことしてないんだから、気にしないで堂々としていればいいんだよ」
「……」
 そう言われた途端、千晴の涙腺が壊れたかのように、涙がどっとあふれた。
 瞬はいつかのように、千晴の手にハンカチを握らせると、去っていった。
 千晴が誰にもわからないように、瞬のハンカチで涙を拭いていると。
「あ、いたいた」
 背後から、聞き覚えのある声がした。
 振り返ると、案の定法子だった。
「どうしたの? 安藤さんがいなくなることが、そんなに淋しい? 誰のせいかわかってる?」
 千晴は何も言えずに、唇を噛んだ。
 そんな千晴に、法子はなおも言った。
「いいこと教えてあげようか」
 千晴にとってはいいことではないだろうと思った時、法子の唇がそれを告げた。
「昨日の夜、安藤さんと一緒だったの」
 千晴は、後ろから殴られたような気がした。
 それって、つまり――。
「杉本さんは、何もなかったのよね。でも私はちゃんと、安藤さんに抱いてもらったから。勝負ありってところね」
 法子はそう言って去って行った。
 千晴は思わず、その場に座り込んだ。
 ――もう耐えられない――。