八月になった。
 IT企業にお盆は無縁でも、社員食堂だけは休みだったりする。
 今日のお昼は、千晴と外で食べることになるのかな、と考えながら総務部で伝票を打っていた圭子のPCに、IPが飛んで来た。千晴からだ。
〈由季さんと千佳さんが、フォレストホテルのランチに誘ってくれたの。圭子さんもどう?〉
 フォレストホテルでのランチ。
 圭子は、北沢由季や山岸千佳を苦手としていたが、ごくたまに、こうしてランチに誘ってくれる。それはそれで、システム開発部へ配属になったみんなとの接点ができるようで、嬉しかった。
 圭子は、早速返信した。
〈よろこんで♪〉


 四人で会社のななめ向かい側のフォレストホテルのレストランに入ると。
「あ、あそこ」
 と、由季が手を振る。
 そこには、隆、瞬、健人が、すでにテーブルに着いていた。
 ラッキーなことに、彼らの隣のテーブルが空いていた。でも、由季が真っ先に隆に一番近い席に座ってしまった。
「安藤さん、今朝はありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 何だろう。圭子は気になった。
「どうしたの?」
 千佳が訊ねると、由季は得意げに(と圭子には見えた)言った。
「今朝、遅刻しそうになって、急いでたら、車で来た安藤さんに拾ってもらっちゃったの」
 ――その言葉は、圭子の心に影を落とした。
 圭子はまだ一度も、隆の車の助手席に乗ったことがない。
 健人は、時々帰りが一緒になった時に、乗せてもらっているが。
 一番年上で、誰にでも優しい隆は、みんなの人気の的だった。一人だけ部署の違う圭子は、自分一人が隆の視野から外れているような気がして、辛かった。
 そういえば隆は、データエントリーの石坂法子とうまくいっているとかいないとか。そして法子は、千晴も隆が好きだと圭子に吹き込んだ。
 そのことを思い出した圭子は、千晴を見た。
 ――千晴も圭子を見た。
 思いがけず目が合ってしまい。千晴は窓の外に視線を移して、圭子は運ばれてきた料理に視線を落とした。
「そうだ」
 健人が、女子たちに声をかける。
「今度の土曜日、夏祭りに行こうよ」
「夏祭り?」
 千佳と由季、そして圭子と千晴が顔を見合わせる。
「三人で行くの?」
 千佳が問いかけると、健人は答えた。
「その予定なんだけどさ。男ばっかりじゃつまらないし、一緒に行こうよ」
「あ~でも」
 千佳がため息交じりに言う。
「その日は関東医科大学と合コンなのよ、ね、由季」
「うん」
「中原さんたちは?」
 健人は身を乗り出すように、圭子を見た。
「千晴さん、どうする?」
 千佳と由季が行かないと言う。千晴次第で行けるものなら行きたい。お行儀が悪いかもしれないが、隆とお近づきになりたい。
「そうねぇ……」
 千晴は考えているようだったが。
「行こうよ」
 それまで黙っていた瞬が言うと。
「――そうね、行こうか」
 と、返事をした。
「じゃあ、私も」
 圭子も頷いた。
 思ってもない好転に、圭子はひそかに上機嫌だった。


 そして、夏祭りの日がやってきた。
 圭子はまず、千晴のアパートに行き、二人で浴衣の着せ合いをして出かけた。
 隆たち三人は、Tシャツにジーンズ姿で待っていた。
 待っていたが。
 露出の多いピンクのワンピースに身を包んだ法子が、隆の横にいた。
 圭子は、大いにがっかりした。千晴も同じだろうか。
 法子は、いつもにも増して隆にべったりで、その後ろを四人がついていく形になった。
「石坂さんの恰好、浮いてるよな」
 健人は、法子に聞こえないように、小声で言った。
「やっぱり、こういうところは浴衣がいいよ。なあ瞬」
「そうだな」
 圭子は、その言葉が少し嬉しかった。見れば、千晴も嬉しそうににこにこしている。
 ――でも。
 その言葉は、本当は隆に言ってほしいのに。
 その時。
「そういえば」
 前を歩いていた隆が振り返った。
「健人、来週から出張増えるんだって?」
「うん」
 健人は頷いた。
「そうなの?」
 圭子が問いかけると、健人は答えた。
「来週から、ちょくちょく尼崎へ出張になるの」
「大変ね」
 答えながら圭子は、淋しい気持ちになった。
 健人が好きだからとかではない。好きなのは隆だ。健人がいないと、気さくに話せる相手が千晴だけになってしまう。
「何、中原さん、俺がいないと淋しいの?」
 健人が半分茶化しながら言うので、圭子は、
「まさかぁ」
 と笑った。
 笑いながら圭子は、健人の半分でも、隆がこんな風に話してくれたらと思った。
 目の前の隆は、法子と話がはずんでいるようだ。
 来なきゃよかった。少し後悔する圭子だった。
「あ、あれ食べたい」
 法子は、隆を引っ張って屋台の方に行く。
「俺たちも何か食べようか」
 健人もそう言って、隆たちの後をついていく。
 圭子もあわててそうするが、千晴はぼんやりしていたのか、出遅れてしまった。
 千晴がはぐれる。圭子がそう思った瞬間。
 それまで黙っていた瞬が、やはり黙ったまま、千晴に手を差し出した。
「あ、ありがとう」
 瞬と手をつないだ千晴の頬が赤くなったように感じるのは、圭子の気のせいだろうか。


 帰り道、圭子は再び着替えるために、千晴のアパートに寄った。
「ねえ」
 圭子は、千晴が恋敵かもしれないということを意識しないようにして、つとめて明るく千晴に話しかけた。
「岡林さんって、静かな人だね」
 今日のお祭り、健人は楽しそうにいろいろ見ていたけど、瞬は、それほどでもなく、健人を持て余しているようだった。
「そうかな」
 千晴のそっけない返事を聞いて、圭子は小さくうろたえた。
 千晴は、同期の中では一番気が合うけど、時々こんな風に、どうしていいかわからなくなってしまうことがある。
「……あんまり話したことないから、よくわからないけど……」
 圭子があわてて付け加えると、千晴が答える。
「まあ、そうかもしれないね」
 千晴は気を悪くした風でもなかったので、圭子はほっとした。
 千晴は、浴衣をたたみながら続けた。
「でも、いい人よ。わからないことは一緒に残業して教えてくれるし。研修の時、席が隣だったのよ」
「そう」
「それに私は、人付き合いが苦手だから、岡林君みたいに、ちょっと距離を置いてくれる人の方がいいみたい」
 千晴の言葉に頷きながら、圭子は、心配する必要はないような気がしていた。
 今の言葉から、千晴が好きなのは瞬なんじゃないかと思えた。
 圭子が隆を思っているということを差し引いても、千晴には確かに、隆より瞬の方がお似合いのような気がする。心なしか、瞬も千晴を意識しているような気がするし……。


     *


 駆け足で夏が去り、秋がやってきた。
 千晴は、会議室で行われている打ち合わせに苦戦していた。
 リーダーの村沢愛美の説明が、さっぱりわからないのだ。
「まず最初に、CIFマスターがあって、これには残高スレーブから、情報スレーブまでがあります。その後に、名寄マスターから貸付マスターまで。データは必ずこういう順番で入ってくるので、テストデータはそうやって作って下さい。それから、氏名編集、住所編集はDBリードを使って――」
 ――???
 愛美の言葉が日本語とは思えないほど、千晴には未知の世界だった。
 そんなわけのわからないプログラムを、四日で組めと言うのだ。
 どう考えても無理だ。
 でも、今回の案件は、徹夜をしてでも納期までに仕上げなければならないらしい。

「どうしよう、間に合うわけないよ」
 昼休みの食堂で、千晴は好物のハンバーグカレーにも手を付けず、頭を抱えていた。
「大丈夫なんじゃない?」
 千晴と圭子の隣で食べている千佳と由季。その千佳が言う。
「だって、四日でなんて、初めて。いつも一週間以上もらってたのに」
「四日あれば大丈夫よ」
「そうよ」
 千佳の向かい側で由季も言う。
「そんなもんよね。そんなの、長い方よ。私たち、いつまでも新人ですって甘えてられないんだから」
 ――二人とも、千晴の愚痴話には付き合ってられないんだろう。どこか千晴を突き放すような口調だった。
 かと言って、向かい側でラーメンを食べている圭子は、プログラミングに関しては知識がないから、あまり愚痴は言えないし。
 そんな千晴に気づいているのかいないのか、由季はさらに言った。
「安藤さんだって、先週の土曜日出てきたのよ」
「安藤さんが?」
 それまでだ黙ってことの成り行きをうかがっていた圭子が、口をはさむ。
「忙しいの?」
「みたいよ」
 今度は千佳が答える。
 圭子が隆の話に興味を示したことに、千晴は、さらに気分を害していた。
 それにしても、どうして隆が先週の土曜日に休出したことを、この二人が知っているのか。
 そんな千晴の思いが顔に出たのか、千佳は続けた。
「昨日、安藤さんのアパートに行ったら、そう言ってた。ね、由季」
「うん。昨日、千佳と法子ちゃんと三人で買い物に出かけてね」
 石坂法子の話まで出た。
 聞きたくない。千晴は心で耳をふさいだ。
 千佳と由季は容赦なかった。
「その後、法子ちゃんが安藤さんのアパートに行きたいって言うから、三人で押しかけたのよ」
「夜遅くまで騒いじゃったよね」
 ――もう我慢できない。
 千晴は、大きな音を立てて席を立つと、不機嫌な表情丸出しで、食べかけのカレーの乗ったトレイを持った。
「圭子さんごめんね。私、仕事があるから。お先に」
「え、ええ。お疲れ様」
 圭子は少し驚いていたようだが、そんなことに構っていられるほど、千晴は心が広くない。
 明らかに気を悪くした風な千佳と由季の視線を尻目に、千晴は食堂を出た。

 千晴は、今回のプロジェクト用の端末が集められているスペースに行くと、端末を開いた。
 見れば、ななめ向かい側で、隆が仕事をしている。隆のプロジェクトは違うが、端末の位置の関係でそうなる。
 こんな時隆は、他の人には話しかけるのに、千晴には話しかけてくれない。
 嫌われているのだろうか。
 でも、さっきの自分の態度を思い出せば、嫌われるのも当たり前だ。つくづく自分が嫌だ。
 隆はこのところ、毎日日付が変わるくらいまで会社に残ってがんばっていたから、土日くらいはゆっくり休んでほしかったのに、そこへ法子たちは押しかけていった。それが許せない。
 何だか、仕事が身に入らないほど落ち込んでしまった。


     *


 その翌日。
 千晴は、相変わらずそのプログラミングに苦戦しているらしい。
 圭子は、そんな千晴を心配しながら、総務部で伝票を整理していた。
 それと、心配ごとがもう一つ。
 昨日の夜、健人と食事しているところを、千佳と由季に見られてしまった。
 あの二人のことだから、きっと陰で何か言っているに違いない。
 昨日、珍しく残業になった圭子は、七時に会社を出た。そこで、尼崎への出張から戻ってきた健人とばったり会い、健人に食事に誘われた。
 でも別に、圭子は健人に恋愛感情は持っていない。第一圭子は、隆が好きなんだ。健人だって、圭子が話しやすいから、何となく誘ってくれたに決まっている。
 でも、周囲はそう思わないかもしれない。
 その時、圭子のななめ向かい側の上司が、喫煙室から戻ってきて言った。
「システム開発部の安藤君、気分が悪いって、休憩室で休んでるみたいだよ」
 ――隆が?
 圭子は、思わず顔を上げた。
「そうですね」
 他の女子社員が答える。
「あの部は残業が多いから、体には気を付けないと」
 圭子は、さりげなく席を立つと、廊下に出た。
 隆が、そんなことになっているななんて。
 そういえば、隆の残業が半端じゃないことを、千晴から聞いていた。由季と千佳からは、休出したことも聞いていた。
 そんなに無理しなくても……。
 休憩室のドアを開けると、隆は、長椅子に横になっていた。
「あれ、中原さん」
「大丈夫? 課長に聞いたから」
「平気だよ。今までハードで、今日から急に楽になったから、気が抜けちゃったんだよ」
「そう……」
 こんなところで、隆と二人きりになっても、あまりうれしくない。
「そういえば」
 隆が切り出す。
「昨日、健人と飯食ったんだって?」
「えっ――」
 由季か千佳が言ったんだ。圭子は一瞬そう思ったが。
「健人、自分で言ってたよ。アパートに戻って一人で飯食うより、中原さんが一緒の方がよかったって」
 隆はそう言って、屈託ない笑みを見せる。
「……」
「あいつも大変だよな。出張が続いて。俺よりあいつの方が大変だと思うよ、精神的には」
「そうね」
 ふと圭子は思った。もし隆が、圭子の好きな人が健人だと誤解してしまったら……。
 その時、圭子の背後で、勢いよくドアが開く音がした。
「安藤さん!」
 ――法子だった。
〈どうしてあなたがここにいるの?〉
 法子の瞳は、圭子にそう訴えていた。
「あ、じゃ、私行くね。お大事に」
 圭子は逃げるように、ドアを開けたが。
「中原さん」
 隆に呼び止められた。
「ありがとう」
「え、あ、いえ」
 圭子はちょっと頭を下げて、部屋を出た。
 席に戻りながら、圭子はふと、千晴のことを考えた。
 千晴は、どんな気持ちでいるんだろう――。