昼休み終了のチャイムが鳴っても、路子はショップで来客の応対をしていた。
一時半をまわって、ようやくデスクに戻ってきた路子に、さっき電話に出ていた泰代が言う。
「佐伯さん、今日の八時過ぎに、加藤さんって方がショップに来るから、お願いします」
「ええっ。私、今日は用があるんです」
顔をしかめる路子を見て、純子が、
「じゃ、私が残ってるよ」
と言うが、
「だめですよ、青木さんは主婦なんだから、早く帰らなきゃ」
泰代が言えば、他のみんなも同調する。
マキは、自分が残っていると申し出ようかと思った。でも、入社したばかりのマキは、まだ右も左もわからない。一人で残されたところで、何もできない。
「……いいです、私残ってます」
路子は、憮然として言った。
「でも、用があるんでしょ?」
純子は少し心配しているように見せかけているが。
「断るからいいです」
と、路子は、携帯を持って事務所を出ていった。
この調子で、みんな路子に押しつけてるんだ。マキは思った。
どうしても、「いじめ」に見えてしまうのだが。
仕事が終わったマキは、一人で外で夕食を食べた。
こんな時一緒に食事してくれる恋人がいればいいのだが、マキは、今まで一度も男の人とつき合ったことがない。おかげで、女性一人でも入りやすい店を、大分覚えてしまった。
男嫌いとかではない。好きになっても、相手も自分が好きかどうかわからないともたもたしているうちに、他の子のものになってしまったし、言い寄ってくる人は、あまり好きになれそうになかった。そんなこんなで、二十五歳になってしまったのだ。
店を出たマキは、再びテレホンネットワークのビルにやってきた。
時計は、八時四十五分を指している。
ショップは閉まっている。
路子はもう帰っただろうか。それとも、事務処理をしているだろうか。
そんなことを考えながらぶらぶらしていたマキは、暗いショップに人影を見つけた。
路子だ。
それにもう一人、路子と同い年くらいの男の人だ。
何か食べながら、談笑している。
まぎれもなく、恋人同士のそれだった。
それにしても。男の人の後ろ姿は、どこかで見たことがあるような気がする。
そうこうしていると、路子がマキに気づいたようで、席を立ってこちらにやってきた。
路子が鍵を開けてくれて、ドアが開いた。
開いたドアから中を見て、マキはようやく思い出した。路子と一緒にいる彼を。
田口克巳だ。
兄文彦の結婚式で、折れたヒールを直しに行ってくれた、ホテルマンの田口克巳だ。
克巳も、マキに気づいたようで、驚いたようにこちらを見ていた。
そんなマキに、路子が声をかける。
「マキちゃん、こんな時間にどうしたの?」
「先輩、まだ仕事してるかなと思って、心配して来てみたんです」
「ありがとう」
「月岡様」
克巳も、こちらにやってきた。
「こんばんは。この間はどうも」
マキは、丁寧に挨拶した。
「あら、知り合い?」
路子が目を丸くするので、克巳が説明する。
「先月、うちのホテルで結婚式をした方の妹さんなんだ」
「そうだったの。マキちゃんは、私の高校の後輩でね。今月から、この会社に入ったの」
「へえ」
「偶然ですね。こんなところで、またお会いするなんて」
マキはそう言って、克巳と路子をいわくありげに見つめた。
「あの、……」
マキは、次の質問をしようかどうか迷っていた。それを聞くのは野暮ではないかと思った。
路子は、どうしよう、という風に克巳を見る。
「まあ、いいんじゃないか。隠したって仕方ないし」
克巳が言ったので、マキは、意を決して聞いてみた。
「路子先輩の彼だったんですか?」
「ええ、まあ……」
路子は、うつむいて口ごもった。
克巳も、目のやり場に困っているようだった。
「そうか、先輩の彼だったのか」
マキは、自分に言い聞かせるように言った。
「さて、そろそろ帰ろうか」
路子は、テーブルを片付け始めた。
「私、着替えてくるね。マキちゃん、ポテトよかったら食べて」
路子は、空のコーヒーカップと、ハンバーガーの紙袋を持って、奥に引っ込んだ。
「あ、じゃあ、いただこうかな」
マキは、ポテトをつまんだ。
「この間は、薔薇ありがとうございました」
克巳が言えば、マキは手を横に振った。
「こちらこそ、靴直していただいて助かりました。ハイヒール履いたの、初めてだったんです」
「月岡様のお宅は、花屋ですよね」
「ええ。でも、兄嫁が来たから、私は独立しようと思って、家を出たんです」
「そうですか。それじゃ月岡様は――」
克巳が言いかけるのを、マキが遠慮がちに遮った。
「あの、月岡様っていうのは、もう……」
「あ、ああ、そうですね」
「マキです。月岡マキです」
マキが自分の名前を名乗ると、克巳もそうした。
「僕は、田口克巳っていいます」
文彦の結婚式の日に名札を見たので知っていたが、そのことは言わなかった。
「――マキさんは――」
克巳は言い直した。
「マキさんは、この会社に入る前は、お家の花屋さんをお手伝いしていらしたんですか?」
「ええ。でも、家にこもってても世間知らずになるからって、兄が心配してくれて。結局この会社に入ったんです。――さて、私、もう帰りますね。ごちそうさまでした」
マキは、ポテトの残りを克巳に渡した。
「送りますよ」
「いえ、お邪魔ですから」
「そんなこと」
「本当に。アパート近いんです。それじゃ、お休みなさい」
マキは、逃げるようにショップを後にした。
「そうか」
「先輩の彼だったのか」
帰り道、マキは何度も、口に出してそう言っていた。
がっかりしたという感は、拭えなかった。
アパートに着いた頃、マキは自分自身に向かって、こう言っていた。
「でも、早くわかってよかったよ」
翌日、マキが帰宅して、コンビニのお弁当を食べていると、携帯が鳴った。
「もしもし」
「佐伯です」
「あ、先輩、すみません」
今日も路子は忙しそうだったので、マキは、接客中で空いている路子の席に、自分の携帯の番号を書いたメモを置いて帰宅した。路子から電話がほしかったのだ。
テレホンネットワークの勤務時間は五時半までなのに、ショップの閉店時間は七時。路子は、毎日一時間半残業しているばかりか、お昼も食べずに来客の応対をしているらしい。おかしな話だ。
なぜ、路子ばかりがそんな目に会うのだろう……。
マキは、早速用件を言った。
「今度の土曜日か日曜日、一緒にご飯でも食べませんか」
いつも一人で外食するのは淋しい。かと言って彼氏もいないし、久しぶりに再会した路子と食事したいと思ったマキだったが。
一瞬の空白があり、路子は答えた。
「私、土曜日も日曜日も仕事よ」
「ええっ?」
「だって、ショップは年中無休なんだもの」
「そんな……。じゃ、先輩、いつ休みなんですか?」
「十二月にショップがオープンしてから、お正月の三が日以外休んでない」
「そんなの、おかしいじゃないですか!」
マキは思わず、声を張り上げてしまった。
「だいたい、みんなおかしいですよ! 路子先輩がこんなに苦労してるのに、誰も手伝おうとしないんだもの! それだけじゃない、土日の出勤までみんな先輩一人にやらせるなんて。みんなで交代して、休日出勤したら代休をとるのが……」
「マキちゃん」
路子の声が、マキの言葉を遮った。
「『自分の仕事を人に押し付けてる』って陰口たたかれるよりはましなの」
「先輩……」
そうだった。
路子は、高校の頃からそういう人だった。
人の顔色をうかがっては、自己主張できずに損をする人だった。
「先輩」
マキは、携帯を持ち直して、声を改めた。
「強くなって下さい。人に何と言われようと、自分が正しいと思ったら、堂々としていられるようになって下さい」
路子は、かすかにうなずいたようだった。
マキは、路子の土曜日の終業時間を確認し、その後食事しようと約束して、電話を切った。
「でも、いいなあ、先輩は」
土曜日の夜、一人ではちょっと入りづらいイタリアンレストランで、ワインを傾けながらマキが言うと、路子は、え?という顔をした。
「あんな素敵な彼がいるじゃないですか。私なんて、今まで一度も男の人とつきあったことがないんですよ」
路子は、えへへ、と俯いたが、しばらくして顔を上げた。
「でもね、彼もかわいそうな人なのよ」
「え?」
路子の話はこうだった。
克巳は、母親が中学生の時に、援助交際をしてできた子供である。母親が中学生では、満足に育てることもできないので、克巳は、遠縁に預けられていたようだが、そこでは、あまりいい待遇を受けていなかったらしい。
母親は、フォレストイン長野のルームメイドをしているうちに、ホテルの支配人、田口仁と恋に落ちた。
克巳が高校を卒業して、いよいよ母親と暮らせるという直前に、母親は交通事故で亡くなってしまった。そこで、母親と恋仲だった仁が、克巳を養子にしたのだった。
「――まあ、彼のお母さんが生きていても、支配人と結婚してただろうから、結局彼は、支配人の息子になってたのよ」
「そうなんですか……。じゃあ、克巳さんと血のつながった人は、この世のどこにもいないんですね」
「それがね」
路子は更に話した。
克巳の母親が亡くなった時、ショックで体調を崩した克巳が病院へ行き、診てもらった医師こそが、克巳の父親だったのだ。その医師には息子がいて、(克巳の異母兄にあたるわけだが)その息子とは今も交流しているという。
「――だから克巳には、お父さんが二人いるし、お兄さんもいるのよ」
「複雑な環境に育った人なんですね」
相槌を打ちながら、マキは路子をじっと見た。
恋人のことを話す路子は、本当に幸せそうだ。
仕事をしている時とは、別人のようだ。
仕事をしている時も、こんなにいい表情をしていれば、みんなの態度も変わって、路子を手伝ってくれるんじゃないか、と、ふと思った。
仕事中の路子は、ピリピリした空気を発していて、声をかけることもままならないのだ。
そうなると、ますますみんな路子を敬遠するようになり、ますます路子は一人で抱え込み――悪循環なんだな。
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