下北に構えた小さな店。
 そこが、彼らの城だった。


 去年の夏のことだった。
 岡沢純はいつものように、道端で手作りのアクセサリーを売っていた。
「よお」
 純に声をかけたのは、純の友人、飯島比呂だった。純より一つ年上の二十二歳だ。
「売れてる?」
「まずまずだよ」
 比呂は、純の横に座った。
 純は専門学校が休みの間、ここでアクセサリーを売っていた。
 劇団員の比呂も、稽古がない時間は、こうして手伝いに来てくれた。
「就職どう?」
 比呂の問いに、純は苦笑した。
「ココが悪いと、なかなかね」
 純は、自分の左胸を軽くつついて言った。
 そう。
 純は、心臓に疾患を持っていたのだった。
 その時。
「純」
 声をかけられて振り向くと、純の主治医の村上が来ていた。
「先生!」
 純は少し驚いた。
 村上とは診察で会っているが、外で会うのは珍しい。
「今日はちょっと話があってね」
 村上は、一緒に来ていた初老の男性を促した。
「はじめまして。私、こういうものです」
 男性は、純に名刺を渡した。
〈岩井商事 代表取締役社長 岩井潔〉
「……?」
 事態が飲み込めない純に、村上が言った。
「今、ちょっと時間あるかな」
「えっ……」
「行ってこいよ、純」
 純の背後から、比呂が言った。
「俺が店番してるから」
「いや、比呂君にも来てほしいんだ」
「俺も?」
 比呂は怪訝な顔をした。
「――わかりました」
 純は、何か大事な話があるとわかったので、返事をした。
「比呂、片付けよう」
「う、うん」
 純と比呂は売場を片づけた。


 そして、四人で涼しい喫茶店のテーブルについた。
「実は」
 岩井社長が切り出した。
「下北沢にファンシーショップをオープンしようと思うんです。そこで、店長と店員をと思っていたのですが……」
「僕たちにそれを?」
 純は、恐る恐る訊ねた。
「そうなんだ」
 村上が答えた。
「純は普通の体じゃないんだし、普通の就職だと難しいと思うんだ。だからと言って、こうやって外でアクセサリー売ってても、それだけでは食べていけないだろうし、今日みたいな暑い日に屋外にいると、体に障るよ。それよりも、その店で純の作ったアクセサリーを売ればいい」
 純は考えた。
 就職がなかなか決まらない純にとっては、まさに棚から牡丹餅だった。
 そんな純の横で。比呂が訊ねた。
「俺もいいんですか」
「もちろん。だからこうして来てもらっているんだ」
「まずはお二人でお店を開いていただいて、アルバイトを一人くらい雇うというのはどうでしょう」
 岩井の言葉に。純と比呂は顔を見合わせた。
「あ、それから」
 村上が続けた。
「店舗の二階は2Kの住居になってるんだ。二人でそこに住んだらどうだろう」
 その頃純と比呂は、安いアパートに一緒に住んでいた。
 家賃の半分は二人のアルバイト、残りの半分は村上が払っていた。
 それだけじゃない。
 村上は、純と、純を産んだ次の日に命を落とした純の母の主治医で、生まれた時から純を本当の息子のように気にかけてくれた。
 中卒の純が、大検を受けてアクセサリーの専門学校に行きたいと言った時も、学費を出してくれた。
「先生……」
 純は、声を震わせた。
 こんなによくしてもらって、どんな風に感謝したらいいんだろう。
「どうかな」
 村上は、温和な表情で、純に問いかけた。
「ありがとうございます!」
 純と比呂は、頭を下げた。


 そうしてこの春、純の専門学校卒業を待って、ファンシーショップ「PURE」の開店となった。


     *


「ただいま」
 劇団の稽古から帰って来た比呂は、二階の住居へ行った。手には、コンビニ弁当を持っている。男二人の生活なので、料理はあまりしない。
「お帰り」
 純はテーブルに、一枚の履歴書を広げていた。
「バイトの面接?」
「うん、今日来たんだ」
「ふーん」
「JUNE」の店員は、純と比呂の二人いれば充分足りるが、比呂は劇団の関係で、店にいないこともある。純も、体調が悪ければ店に出られない。そこで、岩井社長の提案の通り、アルバイトを一人雇うことにした。
 比呂は何気なくその履歴書を手に取った。
 すると。
「――!」
「比呂?」
 比呂の顔色が変わったのに気付いた純が、声をかける。
 比呂は、茫然としながら言った。
「……妹だ……」
「えっ?」
「俺の妹なんだよ」
 比呂は、履歴書をテーブルに戻した。
 上原瑞枝という十九歳の少女のものだった。
 比呂は、昔妹と離れ離れになったことを、純は知っていた。
 十四年前、比呂の両親が離婚した時、母親は瑞枝だけを連れて出ていった。
 その後比呂は、傷害事件をおこして、少年院に入った。
 少年院では、両親との面会は頑なに拒んでいた比呂だったが、瑞枝とだけは一度会ったと言っていた。
「そっか、比呂の妹さんなのか」
 純は、感慨深く言った。
「それなら、彼女に決めるよ」
「えっ」
「だって、これも何かの縁だよ」
「でも」
「いいから。飯にしよう」
 困惑する比呂をよそに、純はテーブルを片付け、コンビニの袋を開けた。


 翌日、純は岩井社長の許可をとって、瑞枝に採用の連絡をした。
 勤務時間や賃金の打ち合わせをするために瑞枝を呼んだ純は、二階の居間で、比呂との再会の時間を作った。
「お兄ちゃん……」
 瑞枝も、比呂を見て、一瞬言葉を失ったが、すぐに笑顔を取り戻した。
「久しぶり」
「……うん……」
 比呂も、まんざらでもない表情を見せた。
 純は気を利かせて隣の寝室に引っ込んだが、二人の声は聞こえてきた。
「お兄ちゃんの舞台、みんな見たよ。私もお母さんも」
「そうか」
 屈託ない瑞枝の声に、比呂の声も心なしか明るかった。
「瑞枝は、どうしてるの」
「高校は不登校がずっと続いて、中退。家にいても仕方ないから、バイトすることにしたの」
「高校、何かあったのか」
「友達ができなかったの」
「瑞枝もいろいろあったんだな」
「まあね。――でも、あの時は怖かったな」
 瑞枝の、懐かしそうな声が聞こえる。
「少年院へお兄ちゃんに会いに行った時。お母さんは門の前で待っててくれたんだけどね。一人であそこに入っていくの、怖かったんだよ」
「そうか。悪かったよ」
「ううん。また会えてよかった」
 二人の嬉しそうな声を聞いて、純も嬉しい反面、自分にはこうして訪ねてくれる家族がいないことを淋しく思った。

「じゃあ店長、来週から来ますので、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 純もあいさつを返した。
 帰り際に、瑞枝が言った。
「お兄ちゃん、今度家にも来てね。お母さんにも会ってあげて」
 比呂は、曖昧な表情で頷いた。
 そんな比呂を見て、純は思った。
 幼い頃、瑞枝だけを連れて出ていった母親に会うのは、抵抗があるのかもしれない。