「いいじゃない、やってみれば」
 昼休みのカフェテリアで、涼香はあっさりと言う。
 ことは重大だというのに。
「だって、本当は涼香がやりたかったんでしょ? 悪いよ」
 しのぶはそう言って俯いた。
 靖哲がやたらに気になるということは言わなかったが、この前の英和からの電話の一部始終を話したしのぶだった。
「あれはねえ、ポーズ」
 涼香は舌を出した。
「ポーズ?」
「うん」
 涼香は頷いた。
「しのぶがいつも音楽室でピアノの弾き語りしてるの見てて、これは一人でも多くの人に聴かせなきゃもったいないと思ったのよ?」
「って……じゃあ、最初から私にオーディションを受けさせるつもりで誘ったの?」
「まあね」
 涼香は肩をすくめた。
「涼香、ひどい!」
 しのぶは、泣きそうになって言った。
「でもしのぶ、ライブハウスでマイクつきで歌って、気持ちよくなかった?」
 涼香に突っ込まれて、しのぶはぐっと言葉に詰まった。
 確かに、ああいうところで歌って、みんなの拍手を浴びた時、気持ちよかったといえば気持ちよかった。
「だから、私はぜんぜんバンドのボーカルやりたかったわけじゃないんだから、しのぶ、丸尾さんたちのバンドで思いっきり歌いなさい」
「でも私、中原花音の雰囲気持ってないよ」
 しのぶは校則を守って三つ編みヘア。目鼻は小さいし、華がない。
 涼香は茶色の巻き毛をしているし、目はぱっちりしてるし、校則違反の口紅をつけて学校に来ているし、中原花音の雰囲気にぴったりではないか。
「あのね」
 涼香は、声を改めた。
「バンドでも何でも、本気でやりたいと思ったら、外見より中味を選ぶでしょう。しのぶは歌がうまいから、選ばれたのよ。そう思って、自信を持って!」
「でも、親が許さない」
「また親なの?」
 涼香は苦笑した。
「しのぶの問題なんだから、まずしのぶが親に相談しなさい。それでだめなら、私が助けてあげるよ」
「……うん」
 親か。
 しのぶは、目の前に大きな壁があるような気がしていた。

「いけません!」
 やっぱり。
 しのぶは一瞬堅く目をつぶった。
 母の反応は、思っていた通りだった。
「バンドなんて、不良の溜まり場みたいなところでしょ」
「そんなことないよ。みんな一生懸命やってるよ。真面目な人ばっかりだよ」
 しのぶは何とか言い返した。
「そんなバンドなんかやってて、勉強はどうするの」
「両立させるようにがんばるよ」
 しのぶにしては珍しく、引っ込まなかった。
「お金はどうするの。楽器や機材にお金がかかるんでしょ? うちではお小遣い増やしませんよ。アルバイトは校則で禁止されてるでしょ?」
 そこでしのぶは詰まった。
 でも、いつまでも詰まらなかった。
「私、今度から自分でお弁当作って行く。家の掃除も洗濯もする。だからお小遣い増やして下さい!」
「馬鹿言わないの!」
 母は言い放った。
「バンドやって、家のことをやって、勉強はいつするの!」
「両立させるもん!」
 しのぶも言い放った。
 何がしのぶをここまでがんばらせているのか、しのぶにもわかりかけていた。
 母子はしばらくにらみ合っていたが。
「――とにかく、許しません」
 母はそう言い残して、居間を出た。
 そんな母の背中に、しのぶは言った。
「お母さんが許してくれなくても、私はやります」
 母の動きが止まった。
「私はいつまでも子供じゃないの。親の言いなりになってる年はもう終わったの。自分の道は自分で選びます」
 どのくらいの沈黙だったろう。
「勝手にしなさい」
 母は部屋を出た。
 少し時間を置いて、しのぶも居間を出て部屋に戻った。
 ウォークマンを聴く。
 中原花音の歌声がが流れる。
 ここまで母に反発してまで、バンドをやりたいと思うのは。
 靖哲にもう一度会いたいと思っているからだ。
 そして。
 こんなにまで、寝てもさめても靖哲のことが気になるのは。
 ――これが、恋だからだ。

「まあ、いいじゃないか」
 夕食の時、母から一部始終を聞いた父が、思わぬ反応を示した。
「しのぶがそこまでしてやりたいって言ってるんだ。しのぶももう子供じゃないんだし、やらせてみれば」
「お父さんまで、そんな無責任なこと言うんですか?」
 母はまだ渋い顔をしている。
「バンドのせいで成績が下がったらどうするんです」
「しかし、他にやりたいことを全部我慢して、成績だけよくても、つまらない人生なんじゃないかな」
「お父さん……」
 しのぶは少々驚いた。父がそんな考えを持っていたなんて。
「じゃあね、しのぶ」
 母は、しのぶの方を向いた。
「お小遣いは増やしてあげます。その代わり家事をしなさい。それから。テストの順位が百番以下になったら、即刻バンドはやめてもらいますからね」
「百番!」
 しのぶは、思わず声を上げた。
 今だって、二百五十人中何とか百番前後をうろうろしているというのに。
「お母さん、そこまできびしく言わなくたっていいじゃないか」
 横から父が言うが。
「だって。バンドなんかやってたために、大学のランクが落ちたらどうするんです」
「それでも後悔しない」
 しのぶははっきり言った。
「今バンドやらないことの方が後悔すると思う」
「とにかく、百番よ。いいわね」
 しのぶは少し考えたが。
「わかりました」
 と頷いた。
 やるしかない。
 これから、どんな大変な日々になるかわからない。
 それでも、やりたい。

 それからしのぶは、英和にOKの返事をした。
 メンバー顔合わせの日がやってきた。
 しのぶがためらいがちに「K」のドアを開けると、英和たちがテーブルに着いていた。
「しのぶちゃん、こっち」
「はい」
 しのぶは、英和の向かい側に座った。
「はじめまして。滝沢しのぶです」
 しのぶが自己紹介すると、みんなもそうした。
 リーダーの丸尾英和はドラムス担当。ちょっと体育会系で、頼りがいのある風貌をしている。この中ではやはりリーダーになり得る人だろう。
 そのほかのメンバーたちは、ギターの木内達彦、ベースの岡村修、キーボードの石月博と名乗った。
 英和と達彦はサラリーマンということで、ネクタイをしていた。修は専門学校生、博は大学生だった。
「バンド名は、『ANGEL』にしたんだ」
 英和の言葉に、しのぶは面食らった。
 この、男の人ばかりのバンド名が、「ANGEL」?
「だって」
 英和は続けた。
「天使の歌声のしのぶちゃんがいるから」
「えっ?」
 しのぶは、頬が熱くなるのを感じた。
 天使の歌声だなんて、とっても照れくさい。
 その時、店のドアが開いて、一組の男女が入ってきた。
 それを見たしのぶは、心臓がきゅんとなるのがわかった。
 ――靖哲だったのだ。
 一緒にいる女性は、彼女なのだろうか。靖哲と同じように、茶髪にGジャン姿だけど。
 だったら、嫌だな。
「あ、しのぶだ」
 靖哲は、しのぶを見て言った。
「お久しぶりです、風間さんでしたよね」
 しのぶは、動揺を気付かれないように挨拶した。
「風間さんなんて他人行儀な。俺、靖哲っていうの。靖哲って呼んで」
「はい……」
 男の人を名前で呼び捨てにするなんて、今までなかった。
「一美ちゃんも一緒だったの?」
 達彦の問いに、一美と呼ばれた、靖哲と一緒の女性が答える。
「そこで会ったの。今夜は雅人とここで待ち合わせ」
 そこで会っただけか。しのぶはほっとしていた。
「俺はピアノ弾きに来たの。家で弾いてると親に勉強しろって言われるから」
 靖哲のその言葉に、しのぶは思わず微笑んだ。
 親に言われることは、みんな同じなんだ。
「そう、しのぶって言うんだ」
 一美は、しのぶに近づいた。
「私は、『JULIA』ってバンドでギターやってる沢村一美。よろしくね」
「あ、よろしくお願いします」
「私のことも、一美って呼んでね。私もしのぶって呼ぶから」
「はい」
 最初はちょっと妬いてしまったけど、一美もまた気さくな親しみやすい人だった。
 もしかして、この世界で初めての友達になるかもしれない。
「さて」
 靖哲は、ピアノの前に座った。
「しのぶ、また『ラブソング・フォーユー』歌う?」
「あ、はい」
 しのぶは心が躍った。
 靖哲のピアノで歌えるなんて。
「じゃ、こっちに来い」
 靖哲に手招きされて、しのぶはステージに立った。
 靖哲の指が、イントロを奏でる。
 そして、しのぶは歌いだした。

 歌が終わると、そこにいた人みんなが拍手した。
「しのぶちゃん」
 英和が、吐息まじりに言う。
「何か、すごく上手にならない?」
「うん」
「ANGEL」のメンバーも頷く。
「この前も上手だったんだけどね。今回は何か、ハートにぐっとくる感じだよ。何かあった?」
「『ANGEL』のメンバーになってから、一人で練習したとか」
 修の言葉に、しのぶは、
「そんなことないですよお」
 と否定した。
「やっぱり、しのぶちゃん選んで正解だったね」
修が続けると、
「うん」
 達彦と博も肯定する。
 しのぶにはわかっていた。
 なぜしのぶの歌が、みんなの心に響いたのか。
 オーディションの時とは違うことが、一つだけある。
 しのぶは、靖哲を振り返った。
「期待してるよ」
 靖哲は、屈託ない笑顔を見せた。


     *

 工業高校軽音楽部部室では、譲が机に一枚のCDを出していた。
 一緒にいるのは、俊一郎だ。
「何だよ、古いジャケットだな」
 俊一郎は面食らったように言った。
 そのCDは、黒いジャケットとシャツに身を包んだ四人の男が、モノクロの背景に立っているものだった。
『MIDNIGHT LOVE/EXTRIA』と、タイトルとグループ名が表記されている。
「えくすとりあ? いつの?」
 俊一郎は、CDを手に取って、しげしげと眺めた。
「俺たち生まれる前のじゃないか」
「そ」
 譲は短く頷いた。
「でも、親父がさ。バンドやるんだったらこういうのはどうかって。スコアも実家にあるって言うんだ」
 譲の父親は若い頃、このEXTRIAのコピーバンドをやっていたらしいが、譲が生まれた時、EXTRIAはもう解散していた。それでも、物心ついた時から、両親に連れられて、ソロになったボーカリスト、村上厚志のライブに行っていたので、自然にEXTRIAの唄は聴くようになった。
「音はいいんだぜ。とにかく聴いてみよう」
 譲は、CDをそこにあったデッキにセットして、再生ボタンを聞いていた。
 しばらく黙って聴いていたが。
「……悪くないな……」
 俊一郎は呟いた。
「だろ?」
 譲は大きく肯定した。
「でも、難しそうだぜ」
 俊一郎は、難しい顔をする。確かにこのCDは、EXTRIAのアルバムの中でもアレンジが凝っている。
「そこは何とか、みんなでがんばろうよ」
 譲はもう一押しした。
「そうだな。じゃ譲、今度実家に帰ったとき、スコア持ってきて」
「わかった。今週末にでも帰るよ」
 譲は、これからこのCDの音を自分たちが奏でるんだと、わくわくした。
「じゃ、俺バイトあるから行くよ」
 譲は立ち上がった。
「このCD俊に貸しとくよ。できるだけ早くダビングして」
「わかった」
「じゃあな」
「ん」
 譲は、部室を出た。

 学校を出て、譲が行ったアルバイト先は、他でもない「K」だった。
「K」は、店長の西山剛と京子夫妻以外は、みんな譲と同じ、バンドの資金稼ぎのアルバイトだった。
「おはようございます」
 更衣室――と言っても、エプロンを着けるだけなので男女兼用――に入った譲は、もうそこにいた、女子大生バンド「MINT」のキーボードの宮崎瑞江とギターの竹田八重に挨拶した。
「あ、鳥羽君、おはよう」
「おはよう」
 二人も挨拶する。
「ねえ鳥羽君」
 瑞江が、譲に話しかけてくる。
「丸尾さんたちのバンドのボーカルの子、見た?」
 丸尾英和のバンド――この間のオーディションか。
「いいえ」
「それがさあ、何だかださい子なのよ。ねえ八重」
「そうね。ちょっと、バンドで歌うって感じじゃないかな」
 八重も苦笑した。
「それに。雰囲気も暗いし。一体何だって丸尾さんは、あんな子をオーディションに合格させたのかしら、もっとかわいい子いっぱいいるのに」
「でも、歌はうまいんじゃないの?」
「そうかもしれないけどさ。歌がうまけりゃ通用する世界じゃないじゃん」
 瑞江と八重は、話しながら出て行った。
 二人の話から察するに。譲は思った。
 オーディションに合格したのは、あの、しのぶと呼ばれていた子なんだろうか。
 あの子だったら嫌だな。譲は更に思いをめぐらした。
 あの子を見ていると、彼女の麻美を連想する。
 正直に言って、今、麻美があれこれ言ってくることに疲れている譲だった。
 ――ああいう子は、一人で十分だ。

 何はともあれ、週末譲は実家に帰った。スコアを父からもらうためだ。
「譲、バンドもいいけどちゃんと勉強してるの?」
 母はお決まりの台詞を言う。
「してるよ」
 譲も、お決まりの返事をする。
「本当かしらね」
 母は吐息するが、それでも譲のためにケーキを買って待っていてくれた。
「それより親父、『MIDNIGHT LOVE』のスコア」
 譲がケーキを頬張りながら父に言うと。
「わかった、わかった」
 父は書斎に消えたかと思うと、すぐにCDジャケットと同じ表紙の本を持ってきた。
「ありがとう」
「どうだ。バンドのみんなは気に入ってくれたか。あのCD」
「うん」
 あれから、「CROWN」のみんなにもCDを聞かせた。
 二十年も前のCDだというのに、褪せていないサウンドに、みんな魅了された。
 最後のバラードの曲になった時、キーボードの靖哲が、
「これは俺が活躍しそうだな」
 と笑った。前半はボーカルとキーボードだけの曲なのだ。
「本当に譲はお父さんにそっくりになって」
 母が苦笑する。
「そうかな。母さんだってロック好きだったじゃないか」
 父が言い返す。
 それもそのはず。譲の両親は村上厚志ののライブで知り合って、まさにその夜、母の中に譲が宿ったのだ。父が二十歳、母が十九歳の時だった。
 だから譲は、両親が若いということもあり、高校に入って一人暮らしすることも、タバコを吸ったりお酒を飲むことも、比較的ガードが緩かった。
「バンドもほどほどにね」
 まだ言ってる母親に、譲は適当に返事をしながら、紅茶を飲んだ。