それから、春人と麻里亜は気まずい雰囲気の日々が続いた。
 更衣室で顔を合わせても、麻里亜は困ったように、消え入りそうな声であいさつするだけだった。
 仕事では相変わらず小さなミスをして、恵美はますます麻里亜につらく当たるようになった。
 そんな麻里亜を見ていられなくなった春人は、ひとつの決心をした。

 麻里亜の実家の電話番号は、案外楽にわかった。
 事務室の名簿に、全社員の緊急連絡先が書かれてあり、そこに麻里亜の実家の電話番号があった。
 そういえば春人も、この店に入社した時、実家の電話番号を聞かれたっけ。
 休憩時間、店の裏側に出てきた春人は、携帯で、麻里亜の実家に電話をかけた。
「はい、中川です」
 女性の声がする。
 春人は、息を吸って切り出した。
「あの、中川麻里亜さんのお母さんですか?」
「はい、そうですが。どちら様でしょう?」
「突然お電話して申し訳ありません。私、麻里亜さんと一緒の職場に働いている相沢と申します」
「ああ、そうですか……。いつもお世話になっております」
「あの、麻里亜さんのことで、一度お話したいことがあるのですが――」

 次の休みの日。
 春人は、指定された時間に、指定された喫茶店に行った。春人のアパートから、車で三十分ほどの小さな喫茶店だった。
 店に入ると、初老の女性客が一人いた。
 この人が、麻里亜の母親。
「相沢さん?」
「はい」
「はじめまして。麻里亜の母です」
「どうも」
 春人は、麻里亜の母の向かい側に座って、コーヒーを注文した。
「あの」
 麻里亜の母は、上目遣いに春人を見た。
「麻里亜は、どんな仕事をしてるんですか?」
 そんなことも話していなかったのか。春人は思った。
「レンタルショップの店員です」
「麻里亜、どうですか? 人と接するのが苦手な子だったのに、接客なんて……」
「がんばってますよ」
 本当のことを言ったところで、母を心配させるだけだ。春人は言葉を濁した。
「それより」
 春人は本題に入った。
「どうして麻里亜さんに、人殺しなんて言ったんですか?」
 麻里亜の母は、戸惑いの表情を見せて、
「あの子ったら、そんなことを……」
 と、口ごもった。
「麻里亜さん、傷ついてたんですよ」
 春人は、責める口調にならないように、注意しながら言った。
 麻里亜の母は、しばらく黙っていたが、やがて話し始めた。
「瑠奈はやさしい子だったんです。麻里亜のこれからの人生を思って死んでいったんです。麻里亜が瑠奈をいじめたりしなければ、こんなことには……」
 麻里亜の母は、ハンカチで目頭を押さえた。
「全部麻里亜さんのせいだっておっしゃるんですか?」
 春人はもう、苛立ちを抑えられなかった。
「麻里亜さんがどんな気持ちで、妹さんにつらく当たってたか、どうして考えてあげられないんですか?」
 麻里亜の母は、顔を上げた。
「『人殺し』って言ったことは、謝りました。でも、あの子は、『どんなに謝ってもらっても、許せないことだってある』って、そう言って出ていきました」
「そりゃそうでしょう」
 春人はつい言ってしまった。
「何も知らないのに、私たち家族のことに口出ししないで下さい」
 麻里亜の母はそれだけ言うと、伝票を持って、レジに向かった。
 春人は自分のコーヒー代を払うのも忘れて、その場に座っていた。
 力が抜けた。
 冷めかけたコーヒーをぼんやり見つめながら、春人は思った。
 麻里亜はどんなつらい気持ちで、家を出たんだろう。
 今まで、自分はひとりぼっちだと思ってきだんだろう。
 ――でも。
 これからは、そうは思わせない。
 春人はそう決心すると、コーヒーを飲み干し、立ち上がった。


 翌朝、春人が店の更衣室に入ると、テーブルに一枚の紙片が置いてあった。
〈明日飲みに行きませんか? 希望者は名前を書いて下さい〉
 そして、近くの居酒屋の名前と地図が書いてあった。
 年中無休、二十四時間営業の店なので、全員が参加することはできないが、たまにこういうことがある。
 春人は、自分の名前を書いた。
 そこに、麻里亜がやってきた。
 麻里亜は春人を見ると、困ったように俯いた。
「おはよう」
 春人が声をかけると、
「……おはようございます……」
 麻里亜は消え入るような声で言うと、自分のロッカーを開けて、エプロンを着けた。
「メール、見てくれたかな」
「……はい……」
 麻里亜は、春人に背を向けたままで返事をした。
 春人は思った。
 麻里亜は、もう二度と心を開いてくれないのだろうか。
 精神科なんて言ってしまって。
 恵美との関係もばれて。
 ――それは嫌だ。
 麻里亜を失いたくない。
 考えている間にも、麻里亜は支度を済ませ、出て行こうとする。
「あのさあ」
 春人が思わず呼び止めると、麻里亜は振り返った。
 春人は、テーブルの上の紙片を指した。
「明日飲み会あるみたいだけど。行かないか?」
「……私、お酒飲めないから……」
「飲めなくても、行けば楽しいと思うよ」
「……そうかな……」
「行こうよ」
 春人がもうひと押しすると、麻里亜はぎこちない笑みを見せて頷いた。


 でも。
 やっぱり誘っちゃいけなかったかな、と、春人は思っていた。
 春人のななめ向かい側に座った麻里亜は、誰とも話をしないで、黙々とジュースを飲んで食べている。
「麻里亜さん、お酒飲まないの?」
 春人の横、つまり麻里亜の向かい側に座っている恵美が、麻里亜に声をかける。
「私、飲めないんです」
「そう? 強そうに見えるけどね」
 恵美が言えば、他の主婦パートたちも同調する。
 それは、明らかに毒があった。
「そういうの、白けるのよね」
 恵美がなおも言うので、麻里亜はむっとしたようだった。
 その様子が気がかりな春人は、割って入った。
「飲めない人がいても、雰囲気が楽しければいいんじゃないかな」
「麻里亜さん、楽しくなさそうなんだもの」
 恵美は、再び麻里亜の方を向いた。
「ねえ、お酒飲めなくて楽しくないなら、どうして来たの?」
「俺が誘ったんだよ」
 春人が代わりに答えた。
「飲めなくたっていいじゃないか」
「本当に飲めないならね」
 恵美は、口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「家ではがばがば飲んでるくせに、こういうところに来ると、飲めないなんて言ってカワイコぶって、鳥肌が立っちゃう」
「本当に飲めないんです」
「そう言わずに一杯飲んでみたら? アル中で倒れたら救急車呼んであげるから」
 恵美はそう言うと、仲間たちときゃらきゃら笑った。
 すると。
 麻里亜は顔色を変え、バン!とテーブルを叩いた。
 一同の視線が、麻里亜に集中した。
「本当に飲めないって言ってるじゃないですか!」
「あらいやだ。お酒の席で本気で怒って、馬鹿みたい」
 恵美が言い放つと。
「――!」
 麻里亜は叫び声をあげて、テーブルの上の食器をがちゃがちゃとひっくり返し始めた。
「麻里亜!」
 春人は立ち上がり、麻里亜を押さえて、他の客や店員に、
「すみません」
 と声をかけながら、麻里亜を連れて店を出た。


「きゃはは、麻里亜さんが発狂した」
 恵美のその言葉は、かろうじて麻里亜の耳に入った。
 だけど、どうやって店の外に出たのかわからなかった。
 気がつくと、春人と二人、表通りにいた。
「――大丈夫?」
 春人の言葉に、頷く。
 でも、大丈夫なんかじゃない。
「……なんで涙出ないのよ……」
 麻里亜は、うめくように言った。
 こんなに恵美たちに傷つけられたのに。
 心も体もボロボロなのに。
「こんなにつらいのに、何で涙出ないのよお!」
 麻里亜は絶叫した。
 道行く人が、何事かと見ている。
 でも、春人は何も言わない。
 麻里亜は春人を見て、ぎょっとした。
 春人の両目から、涙がこぼれおちていたのだった。
 春人は、黙って泣いていたのだった。
「……なんで春人が泣くの?」
 麻里亜の声に、春人は我に返ったように、拳で涙を拭った。
 そして、言った。
「麻里亜が自分で泣けるようになるまで、俺が麻里亜の涙になる」
「えっ」
 春人は、笑みを作った。
「だから、もう一度俺を信じてくれないかな。恵美とのことは清算するから」
「でも……」
 恵美のことは、そんなに簡単に水に流せない。
 春人の声が続く。
「俺も弱虫なんだ。一人だと淋しいんだ。だから恵美と……」
 麻里亜は、黙って聞いていた。
 春人の声を聞いているうちに、麻里亜の中で、何かが固まりつつあるようだった。
「だけど、今の俺は、麻里亜を大切にしたいんだ」
 ――大切にしたい――。
 こんなことを言われたら、普通の女の子は泣くだろう。
 でも、麻里亜は泣けない。
 だから、代わりに言った。
「ありがとう」
 麻里亜も、ようやく笑顔を繕えるようになった。
 そして、麻里亜の中で固まったことを言った。
「私、精神科に行くよ」
「麻里亜……」
 春人は、目を見開いた。
 麻里亜は、笑顔のまま頷いた。
 麻里亜のために、春人を泣かせたくない。
 麻里亜の涙は、麻里亜のものだ。
 だから、一日も早く自分で泣けるように。精神科に行こう。
「わかったよ。兄貴に連絡取るよ」
 春人は、麻里亜の手を握った。
 そして、二人は笑みを交わした。


 それから春人は、恵美が二度と自分の部屋に入ってこないように、部屋の鍵を変えた。
「鍵変えたのね」
 更衣室で、恵美に捕まった春人は、言われた。
「私、そんなに嫌われちゃったのかな」
 ややあって、春人は頷いた。
「やだ、本当だったの」
 恵美は、ちょっと憤慨したようだった。
「だって、恵美は麻里亜を傷つけるだろ」
「女のやきもちよ。そんなこともわからないの」
 恵美は吐き出すように言うと、訊ねてきた。
「麻里亜さん、この店辞めてどうするの?」
 麻里亜は、昨日付けでこの店を辞めている。
「派遣の仕事が決まったよ。今度は客商売じゃなくて、データ入力だって」
「そう。――彼女には、そういう仕事の方が合ってるかもね」
 恵美はそう言い残すと、出口に向かった。
「恵美」
 春人は、恵美を呼び止めた。
 恵美は立ち止まった。振り返らない。
「旦那さんと、幸せにな」
「……そんなこと、春人にいわれなくたって……」
 恵美は、更衣室を出て行った。

 次の土曜日、休みをもらった春人は、麻里亜を連れて、夏樹が勤めている病院の精神科に行った。
 待合室で、二人は黙って座っていた。
 夏樹が言った通り、待合室に座っている人たちは、ちょっと見では普通の人たちだ。
 この人たちはみんな、心を病んでいるのか。
 そんなことを考えていると、看護師が出てきた。
「中川さん、中川麻里亜さん」
「はい」
 麻里亜は立ち上がった。
「中へどうぞ」
 春人も立ち上がったが。
「春人はここで待ってて」
「でも」
「一人で大丈夫だから」
「そうか」
「うん」
 麻里亜の背中を見送って、春人は、窓の外に視線を移した。
 桜がつぼみをつけている。
 季節は春。麻里亜を救うことで、春人もまた救われるような気がした。