言葉ばかりが転がりおちて深い海にする


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しばらく哲学断ちをします。


ひきこもりの似非哲学をやめようと思います。

鬱々とした気分に埋没している場合ではない。

生きることの前に、哲学は時に重い足枷になってしまうのだと。

ポジティブに生きる人を軽蔑して高級ぶるという精神から脱却せねばなりません。


航路が決まったら、また来ます。


真剣にやってみます。

“私は、死自体が理不尽だとは思いません。

死の恐怖感は、理屈では解るけれど、実感として迫らないというか。
理不尽なのはとにかく人生そのもの。生に始まり死に終わる、この一連のことが理不尽です。
そして一旦生まれ出てしまった身としては、想像するに永遠に生きることの方が死よりも遥かに怖い。

その点では生の始まりを前提にするならば、死は極めて合理的、というか、死はなくてはなりません。

むしろ人生の救いです。

これは私が孤独について関心が強いことも大いに関与してると思われますが。 ”

細い道を歩いていると向こうからご老人がのたのた歩いて来た。


後ろから車が来てるのに全く気付かない様子。後ろの車のご婦人もおじいちゃん困ったわねぇって眉をハの字にして笑ってるくらいでクラクションも鳴らしてないことが救いで、いつもなら見て見ぬふりも有り得ようが、些細な動機があってご老人に声をかけてみた。


耳が遠いらしい。見ると補聴器をつけている。もう一度大きな声で「車が来てますから…」
ご老人は「うちもう近いから」と宣う。乗せて行こうか?という親切(という言葉は欺瞞だ)と勘違いしたようだ。
私はなぜかそこで諦めた。もちろんこの行為の意図はご老人を道の脇に寄せ、車を通してやるためのものであった。


ではなぜ諦めたか。


ひとつには、事の顛末を車のご婦人に見られていて恥ずかしかったこと。

あなたが困っていると思って代わりに助けてあげますよ、

もしくは

ご老人を安全な道の端に導いてあげるという『いいこと』をしてますよ、

という正義感ととられるのが嫌だ、差し出がましいと思う、また、その行為の結果優越感に浸りたいのか?と自問してしまう。
もうひとつ、自分がそれ以上(自ら積極的に、他者に向かって)立ち入って関わって言葉を交わすこと自体が不慣れで怖くて煩わしかったからだ。


「車が来てますから…」

その時の私の表情ときたら!まさに車のご婦人と同じく眉をハの字にして、うすら笑いを浮かべ、優しく穏便に…この態度たるや思い出しても自分に反吐が出る。
なににそんなに平伏してんだ?何にそんなに臆してんだ?


それと同時に、述語を言わなかった、察してもらおうという典型的な日本人たる物言いへの嫌悪。

「車が来てるから、どいた方がいいですよ」

これで足りたはずだ。それを、老人を責めないように言い方を気をつけよう、あくまでも優しい常識人を装おうとなんてするからいけない。事実を伝えればよかったんだ。




こうして他人に積極的に関与したこと自体が第一歩、と思って責めないことにしようと思ったが、あの態度に虫酸が走り、穏やかではいられない。


車の脇を通る時、ご婦人が会釈した。ありがとうと言わんばかりに。私は結局なにも為し得なかった。こうゆう見返りを求めていたのか?なにか薄ら寒い。しかしホッとしてるのも実感。いや、だからこそ薄ら寒い。


ただ、動いたことが自分を鍛える、反芻して後悔することは得た。

勝手でごめん

自分のことばっかでごめん

人と比べてばっかでごめん

世間体ばかり気にしてごめん

安全なとこにいようとしてごめん

保守ばっか、ごめん

ほんとうにごめん

気づかなくてごめん

わかったふりしててごめん

かっこつけようとしてごめん

努力してなくてごめん


私のことを好きでいてくれてありがとう

好きになってくれてありがとう

一緒に笑ってくれてありがとう

私に触ってくれてありがとう

私を見てくれてありがとう

私の話を聞いてくれてありがとう

一緒にバンドやってくれてありがとう

あの帽子をいつもかぶってくれてありがとう


ごめんが3つも多い。

もっとありがとうを感じたい、気付きたい、見つけたい


開けられないままの

賞味期限が2004.10のラムネがあるの

片想いのラムネ、ブルーベリー味。

原価30円、プライスレスなはずの祭り気分を上乗せして、

たしか500円。


あの頃、大好きだった君は

今も変わってない

私は、どんどんずるくせこくなってたよ


想いが通じ合って1年半が過ぎたけど、

気付けてよかった。


私の一番の理解者は君です。

いや、わかってなくても大丈夫、

私が一番本音でなんにも身構えなくても一緒にいられるのは

君です。


おもしろいものを見つけて、

かわいいものをみつけて、

気持ちのいい場所を見つけて、

ちょっとうまいこと考えれたとき、

どじをして恥ずかしかったとき、

一番先に報告したくなる 君です。


生まれてくれてありがとう

○○大学にきてくれてありがとう

音楽が好きでありがとう

○○○に入ってくれてありがとう


一緒にいられる幸せを忘れない。

これからも私の側にいてくれますか?

俺の側にいてほしいって思ってくれますか?



現実世界ではとても苦手な人と、セックスをする夢を見た。


苦手なのは、私自身が劣等感の塊だから、あの人には軽蔑されているだろうと、

そう思っているからで、実は魅力を感じていたのかもしれない。


コンプレックスの強い女は危険な男に騙され易いというのがちょっとわかった。


自分が認められたようで、とても気持ちよかった。

こういう卑屈さは一生変わらないんだろうか。

自分のことだから投げ出せないけど、

こんなことを考えてる人間が自分じゃなかったら、なんと薄気味悪く感じることだろう。


私はごく一般のその辺にいる控えめな22歳だけど、

もし犯罪を犯してこのページが見つかったら

人格障害みたいなことを言われちゃうんだろうか、やっぱり。


人間なんてみんな多かれ少なかれ闇を持ってるものじゃないか?

社会に対して噴出させることは決して許されない、タブー視されている暗い感情の部分。

社会なんて目に見えないところじゃなくても、今日顔を合わせる友達、知り合い、家族に。



孤独



だ。


暗い。あー私はなんて暗いんだろうと思う。


暗いっていうのは一種のタブーみたいな感じになってるよね。

社会とはそういうものです。

いえ、暗い気分より、明るい気分の時のが人生楽しいし、

人と繋がってるのってなんて素晴らしい心持ちなんだろう。

って一番わかってるのは本人なんです。


では何故暗いか。


暗い自分が実は好きだからではないか、と。

実は究極のナルシストなんではないか、と。

思考することによって自分の自尊心を保っている。


世間に出ると、人の中に埋もれる。

すぐに人と比べる。

自分は劣っている、まさに劣等感の塊。


それは現実世界、実利社会での、事実。


でも、コンプレックスの中で、自分の核は、誰より素晴らしいって思ってる。

人ってみんなそんなもんじゃない?


たいせつなもの、


自分らしくいられる時間、


居場所、


結局


なくなってしまうんじゃないかって


そういうところに立ってみないと、


気づかない。


月並みな言葉って、


かっこわるくないんだなあ


実は経験してもいないのに、


(経験してもすぐ忘れてしまうのに)


手垢のついた言葉だって


嘲笑することの


なんて愚かなことか。

哲学のゼミで隣の席の人が、配られたレジュメに「哲学とか暗くてキショイ」って書いてた。

衝撃でした。いや、知ってたよ。哲学は内向的だし、死を考えるし、希望なんてないかもね。

自分は周りの人と生き方について論じ合う気は毛頭ありません。

自分のための哲学をやりたいんです。

哲学に救いを求める自分は結局社会に適応できない異端です。

異端がサンクチュアリを求め集うなんて、不毛です。

哲学が個人のものじゃなかったら、意味なんてない。

過去のブログを読み返したら、


自分、なんてMなんだ。


性的趣向云々は置いといて。

精神的に、基本【負】のスタンスのが落ち着くみたい。

安定する。

それを卑屈に思うこともあるけど、(明朗快活、オープンな人はやっぱり羨ましいさ。)

これも自分の色だなぁって。



根に持つ方ではないが、温厚(に振舞っている)な自分だって腹が立つ。


しかし今書いて思ったが温厚に振舞うっていうのは性質が悪いね。


自分ほどパーフェクトに自分の感情に後から後から否定ぶっつける人もいないんじゃないかと、ふと。


ある不快な感情が湧くと、とりあえず、我慢。

で、後で整理してみる。


このプロセスの時点で、感情を歪曲しちゃってる。

自分を正当化したいって気持ちも強いしね。自分勝手って方向じゃなくて、世間的に、一般的に「大人」な処理っていうか、誰からも責められないであろう、『正当』な答えをひねり出そうとしてしまう。


冷静でもあるけど、臆病だな。自分を常に被害者サイドに置いとけば楽だからね。

臆病とは言っても敢えて狡いとは言わない。狡いって言葉を使うと、身も蓋もない。そこまで自分を虐めるのは辛い。


こうして言葉で武装してしまう自分に酔ってるのかもね。

まぁ不器用だし、このくらい大目に見てくださいな。