これは私が特別養護老人ホームに勤めていた頃の話。




脳梗塞を患い、寝たきりになった方がいました。


全身が固まって麻痺しており、食事も排泄も全介助の男性・Tさん。


脳血管性の認知症も発症していたためか、全く喋らない。


唯一喋るのは名前だけ。それも職員が「名前は何ですか?」と問いかけた時だけでした。


喋らないからといっても、こちらから声を掛けるのを怠ってはいけません。


もし自分が全身麻痺で、無言でオムツを取り替えられたらどう思いますか?
いきなりズボンを下げられ陰部をさらけ出され、他人の手で拭われる。
…恐怖ですよね。


でも、大人数のオムツを交換する時間に追われて声を掛けるのを忘れた時がありました。


ああ、忘れちゃった…と罪悪感に囚われる私に追い討ちが駆けられました。


Tさんの息子が面会に来たのです。


孫の話や仕事の話、昔はこうだった、と他愛のない話を。


相槌もなく返事もないTさんに対して、息子さんは一生懸命語りかけていました。


「喋らなくても動けなくても、私が介護しているのは誰かにとって大切な人」


当たり前の事を突きつけられました。


オムツ交換が遅れたら周りに迷惑をかける…その一心で介護をしていた私にとって衝撃を受けた出来事です。


介護施設で仕事をするという事は誰かにとって大切な人を預かること。


もし自分の親や親戚が声も掛けられず機械的な介護を受けていたら…と想像する力が、介護する上で最も大事だと思います。


それからは、声を掛けるのは絶対忘れんぞ!と心に誓いました。


この人は誰かにとって大切な人だから。






余談ですが全く喋らないTさんが一度だけ名前以外を喋った時がありました。



明け方に「オムツを交換しますね~」と声を掛けたら、ものすごく力強い声で




「おっぱい!!!」




朝日に照らされオレンジ色に染まった部屋。


Tさんが叫んだ「おっぱい」が何故か神々しく感じられました。