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Hossy☆★Style  自遊人♪ただいま試運転中

毎朝1本とりあえず書き始めています★

6月になった

 

今日は久々に散歩した直後にブログと向き合っている。

 

うぅむ、こっちの方がしっくり来るかな。

でも、しっくり来ることが良いとは限らない。

しっくり来るのが、これまでの自分なのか、

いまつながろうとしている自分なのか、

判別つかないところがあるからだ。

 

とはいえ、とりあえず感じたままに、

書いていってみよう。

 

自分って果たしてこれまでの人生でどれだけ足跡を残したろう?

 

こんなことに頭を巡らせながら今朝は散歩していた。

 

率直なところ、私の半生で誰かに誇らしく語れるような実績を残した感覚はほとんどない。

というか、そもそもそんな気もなかったのだからどうしようもなかった、

というのが正確なところだろう。

 

でも、やはりときおり「自分の人生ってなんだったのだろう」と思うことがある。

家庭を持つ選択をしていたらまた違ったかもしれないが、

おそらく一緒だったろうし、逆にさらに無意味さを際立たせていたかもしれない。

 

それでは、自分って何をよりどころにして生きてきたのか。

 

それは、やはり幼少の頃からの思いにつながる。

 

「この世の中の仕組みのなかで何かをしたい思いはない」

「自ら仕組みをつくりながら生きたい」

 

ここに向けて試行錯誤してきた人生だと言って良いと思う。

 

じゃあ、そんな幼少時の自分の純粋な思いを叶えられたかというと、

残念なながら「力及ばず」って言わざるをえなかった。

 

それでは、諦めて妥協した生き方をしてきたか。

それができなかった。常に幼少時の思いを胸に生きてきた。

でも無力だった。打ち砕かれ続けた。

気がついたら年ばかり重ねていた。

 

そうした有り様は、この世のなかにおいては決して成功者ではない。

むしろ、落伍者、社会不適合者といっても良いだろう。

 

そして、いまや自由人という名の無職、独身、子供なし。

次の仕事へのめどはまったく立っていない。

(正確には、もう労働しないと決めているだけだが笑)

 

自分にとってのよりどころ、

それは「自分と向き合い続ける」こと。

それだけだったといっても良い。

 

そうした行為は一見何の果実を生み出していないようにみえる。

それらは「何をしていない」に等しいことと見られがちでもある。

 

ただ、実は「自分と向き合い続ける」という日常がどれだけ過酷だったか、

それを知るのは自分だけだったといえる。

 

最近になった「見えない」積み重ねが「見える」領域に多大な影響を与えていることを感じられるようになってきた。

 

自分と向き合い道なき道を歩み続ける。

 

そうした内的な歩みが外に反映されている。

世の中でいわれる仕事だけが仕事ではない。

 

そういえば、社会不適合者っぽい半生を歩みつつも、

お金については苦労しなかったと認識している。

あとは結婚はしなかったけど、素敵な女性と接点を持つことが多かった。

不思議と向こうから近づいてくるという感覚かな。

 

妙な色気や欲を出すと損をしたり痛い目を見るのが興味深いけど。

 

そうしたことはいまでも続いているし、今後はいずれもグレードアップしていく気がしている。

そして、その理由も心のどこかで分かっている笑

 

いま生きている世界だけで計る必要はない。

視点を広げて地球とか宇宙などから自分を眺めている。

そうすると、自分って着実に生きてきたよねって思えるようになるのよね。

 

自己卑下は不要。傲慢さも不要。

自分として生き続ければよい。

なんやかんやブログを始めて1カ月。

 

そのうち、休んだ(サボった!)のは1日。

なんとか習慣化できつつあるかな。

 

ブログを更新するタイミングとしては、

ここ数日間は当初の散歩後から朝食後に切り替えたけど、

どうやら朝食で一息入れるとブログを更新するスイッチを入れづらくなるようだ。

 

感覚的には、目覚めて動き出すにつれ、

自動的にこれまでの現実モードに切り替えていくんだろうな。

すると、目覚めてからしばらく感じている脱現実モードの自分と混じり合い、

混乱していく状況になるんだろうな。

 

逆にいうと、この時間帯こそ自問自答スタイルに、

ノートに殴り書きしてもいいんだろうけど。

 

最近は、ごく自然に湧き上がる思いに対して、

「それは自己発信? それとも思い込みの名残り?」

って、問いかけ続けるようにしている。

 

すると、どれだけの当たり前が無意識のうちに浸透していたかが見えてくる。

でも、すっかり当たり前になったことを反転させるのは、

決して簡単なことではない。そのことも認識していかなきゃいけない。

コンビニ感覚の書き替えはすぐにメッキが剝がれるか、

反作用が起きてくることを忘れてはならない。

外からの刺激による反応に気づき切り離す

 

一日のうち、どれだけ「外」の出来事や情報によって、

心を動かしているだろうか。

むしろ、動かされているといってよいだろうかな。

 

会社員を辞めてから、「自分」でコントロールできることが増えると思ったが、

意外とそうでもないようだ。

 

目覚めのとき、「起きよう」と指令を発することで起きるわけではない。

気がついたら目覚めている。

 

体調が思わしくない自分のなかでは、このあとの行動でひと悶着ある。

 

「いやぁ、だるいわ。もう少し横になっておこうよ」

「あっ、米国株の動きやばいことになっていたな。株価どうなっているだろう」

「週末でかけるんだよな。雨予報変わったかな」

「あぁ、目覚めのときこそ、精神集中して瞑想やろうぜ」

「まぁ、落ち着こう。まず水飲んでおこうや」

「ふうぅむ、その前にトイレ。顔も洗っとこう」

 

自分のなかのいろんな声に翻弄されながら、

なぜかテレビをオンにする。

そして、youtubeを検索する。

お気に入りの音楽を聴こうとするが、気になるタイトルを見つける。

知らずのうちにそのコンテンツに視点を合わせている。

 

「???」

 

あれっ、何をしようとしたっけ?

 

これは目覚めに限らない。

 

「さぁ、これやろう」

 

「あれっ、そういえばあれやらなきゃ。うぅむ、めんどい」

 

「うぅぬ、喉渇いたから水一杯飲もう」

 

「ふぬ、冷蔵庫にあったはずの牛乳が切れているぞ」

 

「???」

 

常に外の刺激に翻弄され続けているなか、

どうやら、刺激されるたびに反応しながら行動する自分が定着しちゃうんだろうな。

 

まぁ、地元のショッピングモールにふらふわ歩いているだけでも、

いくつもの刺激にのみこまれそうになるのか。

 

刺激によって反応しながら一日を過ごしている自分。

このことに気づく。

いま選択し行動に移したことが本当に必要としていたものなのか。

 

そもそも、ふだんからこうありたいという自分を認識できているだろうか。

 

感情で揺さぶりながら実を得ようとしている、この世界。

 

今日は一日、ずっと意識し続けることを意図していこう。