百合花可部ディサービスは 太田川沿いを面しており、清いせせらぎが流れる広大な自然環境に囲まれる古民家を改築して出来た新しい通所型介護施設である。

 

朝の9時半から 広島市内にいる在日中国人高齢者達が送迎車から続々と降りてきて、100平米を超える広いホールに集い始める。「你好。」「你来得早啊。」と東北弁を訛っている中国語で挨拶し始めた。

 

 

若手の女性管理者やスタッフ達が 知人友人達は自分の家に訪ねて来るように玄関から暖かく接し、家の中へ案内する。着いたばかりの高齢者達は自ら マッサージチェアーに座り、のんびりと目を瞑って過ごすおじいちゃん、一人でのお風呂に浸かってから 決まってる席に座り、iPadで塗り絵を始めたお婆ちゃんもいる。今日の新聞を開いて隅々まで読み通す無口で学者の格好をしている高齢者もいる。中国将棋、囲碁、書道、麻雀、カラオケ、お風呂、趣味や相性によって自主的にグループ分けて 自由に過ごしている。

 

このディサービスは 旧満州(中国東北三省と呼ばれる黒竜江省、吉林省、辽宁省)から帰国してきた中国残留孤児達の集い場であり、「中国人帰国者之家」と呼ばれている。この施設の利用者達の殆どは 大東亜戦争戦争中や満もん開拓の為に両親と共に東北三省へ移り住み、一部は16歳ぐらいの日本人青年達が生徒動員され、開拓団に加入し、中国で結婚し、子供を生まれた。

 

戦況が悪化し、終戦直前に日本に帰国したり、逃げたり する日本人も増えてきている。もちろん その中で日本人の両親と離れ、置き去りになった子供達が残留孤児になってしまった。70歳、80歳過ぎた高齢者達は 1980、90年代頃日本政府から日本国民特別救済金や生活保護を受けながら やっと日本で安着できた。皆の特徴は 片言の日本語しか話せない、日常生活では 中国語を喋っている日本人である。両親共もしくは親の片方は 日本人であり、中国人の養父母に育てられている事が殆どである。

 

父親は 昭和30年頃 戦時中は 関東軍の副連長として務めており、終戦直前の旧ソ連参戦の混乱で、ソ連軍に破られ、シベリアへ流浪され、捕虜として2年間の過酷な労役生活を送った。釈放されたから 中国の黒竜江省に戻り、その後 日本へ帰国を果たした。4歳の松永さんだけは 一人で中国に取り残り、中国人の養父母に育てられた。1972年日中国交正常化してから日本政府は 国費で日本人残留孤児に故郷訪問を要請し、一部の人たちが日本に帰国し、難民法により 生活保護を受けている。故郷である日本とは言え、また新たな差別と偏見を受けながら 残りの半生を生きている。

 

「私は誰なの?」と中国人にも日本人にも認められない中国人残留孤児達は 中国でも日本でも差別と貧しさの呪縛から抜け出せないように見える。数十年前から胃の全摘出手術を受けた李さんは 日本の先進医療技術に感謝し、日本に帰国していなければ 生きるわけがないと言いました。

 

戦後74年を迎える今日 広島原爆ドムから10キロぐらい離れているこの施設において、「どうしても広島だけ原爆を投下したか?やっぱり 日本人は 悪いこと沢山やって天罰だと思う。」「私は 日本人であり、中国人でもあります。中国文化では 「百善孝為先」(百善の中で孝行は 一番である)の優れた伝統があり、日本では 先進医療があります。どちらでも感謝しています。国と関係なく 世界は一つになり平和に暮らすべき」と東北弁を混じる北京語で李さんが語ってくださった。

 

85歳の山お婆ちゃんは 12人兄弟の末っ子として生まれた、5歳の時に両親と旧満州に移り住み、戦乱中 両親と兄弟達に生き別れ、50過ぎてから 日本へ帰国し、両親が亡くなり、5歳までの記憶しかない、兄弟の一部は見つけた。現在 要介護3認定になり、ディサービスを通っている。

 

百合花可部ディサービスは アットホームな雰囲気の中で平和で自由に過ごせる大家族のような施設である。ぜひ お気軽にご見学とご指導にお越し下さい。