講演を聞き、勉強し、インターネットで勉強した。

その過程で色んな人と出会った。

同じ考えの人と会う度に、嬉しくなり、結束を強めた。

理解してくれない幼稚園のママ友も必要ないと思うほどだった。

この時、私はストレスになるほど知識にがんじがらめになっていたので、

関わって下さった方に対して失礼な態度をしていただろう。

それほど、子供を守るのに必死で「敵」を排除していたと思う。

未熟だった私を許して下さい。


愛知県での生活がやっと居心地が良くなった頃、

突然、関東へ転勤になった。

すごくショックだった。

折角分かち合える友達と出会えたのに、別れなければいけないのは勿論の事、

放射能への不安が一気に押し寄せてきた。


私達家族は、東日本大震災が起こった時、東京にいた。

上の子が1歳、下の子を妊娠中だった。

その日は、朝からいつもない悪阻があった。

食べ悪阻だったのか、近所のおばちゃんが握ってくれるおにぎり屋さんのおにぎりが食べたい、と思った。

大量に買うつもりはなかったのに、どうしてもあれこれ食べたくなった。

更におにぎり屋さんの帰りに、何故かパンも買いたくなった。

大量の食糧を買い、家に帰った。

自分でも不思議だったが、悪阻だからだろうと思った。

お昼ご飯を食べ終え、娘とお昼寝をしていた。



2011年3月11日14時46分。


揺れに目を覚ました。

すぐにおさまるだろう、そう思っていたが、

揺れはおさまる所か、次第に激しくなった。

地震だ…。

どうすればいいのか、頭が真っ白になった。

ただただ、娘とお腹の赤ちゃんを守ろうと思った。

私達は7階に住んでいたので、地上で感じるより揺れが強く感じたのかもしれない。

揺れが更に強くなり、

マンションが折れてしまうのではないか…


そう思うほど、恐怖しかなかった。

揺れが止まらないのではないかと思うほど、長かった。

地震が終わった時は、力が抜けたが、まだ寝ぼけている娘を強く抱きしめた。

暫くして、テレビから衝撃的な映像が流れた。

津波の映像だった。

全てのものを飲み込み、先ほどまで笑顔の人達を、大切にしてきた街を容赦なく飲み込んだ。
そして、原子力発電所が爆発した。

日本は、チェルノブイリになってしまったと思った。

主人は出張中でいなかった。

エレベーターも止まってしまい、身動きも取れなかった。

しかし幸いにも、沢山買った食料のお陰で助かった。


お腹の赤ちゃんが教えてくれたのだと思った。

ガスも止まってしまったので、お風呂にも入れなかった。

着替えだけをさせて、娘を寝かしつけた。

明日から、むしろこれから日本はどうなるのだろう…そんな不安から眠れなかった。

いつもは静かな歩道も、その日は沢山の人が自分の家へ向かって歩いていた。

その光景を7階から、ただただ見つめていた。


ここまで読んでくれてありがとう♡

 

放射能から身を守る為に出来る食について書かれた一冊。
原爆が落とされた長崎で、生き残った人達が食べていた食とは。
私達は今ここから学ばなければいけない。
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