「トランスジェンダー」に対する「ルッキズム」は「トランスルッキズム」と呼んだらいいのではないか? | Xジェンダーで二次元愛好者な私 ~性別二元論とシスジェンダー中心・異性愛前提主義への疑問~

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当ブログでは自らのセクシュアリティの話を中心に社会における性の概念や二次元の話など、あらゆるテーマを扱います。なお、当ブログの内容はあくまで私一個人の意見や考えとして書いています。

「トランスジェンダーの女性」に対する「あの人は「男性」に見える」という発言、「トランスジェンダーの男性」に対する「あの人は「女性」に見える」という発言、「トランスジェンダーの女性」に対する「「トランスジェンダー」にしては美人」という発言、「トランスジェンダーの男性」に対する「「トランスジェンダー」にしてはかっこいい」という発言等々…こういった「トランスジェンダー」の当事者に対する容姿や体型を指摘する発言は毎日のようになされています。これらの発言は、その人が「トランスジェンダー」であるということを抜きにした場合、単なる「ルッキズム」にあたる発言となります。しかし、私は「トランスジェンダー」の当事者に対して向けられるこういった発言は「ルッキズム」ではなく「トランスルッキズム」という別の言葉で呼んだ方がいいのではないかと思っています。というのも、「トランスジェンダー」の当事者に対する容姿や体型を指摘する発言には、一般的な容姿や体型を指摘する発言とは異なり、「「トランスジェンダー」に対する差別」の問題にあたる独自の問題が隠されているからです。

 

例えば「シスジェンダーの女性」の場合、周囲の人々から社会が定めた「女性らしさ」には当てはまらない外見とみなされたとしても、それが直ちに「あなたは「女性」ではない」という扱いになることはありませんが、「トランスジェンダーの女性」の場合、少しでも周囲の人々から社会が定めた「女性らしさ」には当てはまらない外見とみなされた場合、それが直ちに「あなたは「女性」ではない」「あなたは「男性」」という扱いになってしまうことになるため、同じ「女性」が周囲の人々から社会が定めた「女性らしさ」には当てはまらない外見とみなされたという問題であったとしても、「シスジェンダーの女性」と「トランスジェンダーの女性」では抱えている問題が異なると言うことができます。また、最初に挙げた例の中の「トランスジェンダーの女性」に対する「「トランスジェンダー」にしては美人」という発言や、「トランスジェンダーの男性」に対する「「トランスジェンダー」にしてはかっこいい」という発言は、「トランスジェンダー」の当事者の容姿は「シスジェンダー」よりも劣るものということを前提としていて、なおかつ「「女性」は美しくなければいけない」「「男性」はかっこよくなければいけない」「「女性」は美しいと言われれば喜ぶ」「「男性」はかっこいいと言われれば喜ぶ」といったその「性別」というものに対する固定観念が混じっていているものであるため、「「トランスジェンダー」に対する差別」だけでなく「女性差別」と「男性差別」、そして一般的な「ルッキズム」にもあたるものであるという、複数の問題が重なり合っている発言だと言うことができるものです。こういった「トランスジェンダー」の当事者が独自に抱えている容姿や体型に関する偏見に関する問題を可視化するためにも、「トランスルッキズム」という言葉が必要だと私は考えます。

 

現在この社会では、他人の容姿や体型に関する話題を出すことがごく当たり前のようになっています。家族や友人との何気ない会話の中において「背が高いね」「背が低いね」「太ったね」「痩せたね」といった発言が出ることも、メディアの記事のタイトルにおいて「美人過ぎる」「太っちょな」といった言葉が使われることも、ごく当たり前のようにあります。私はこういった他人の容姿や体型に関する話題が出ることがこの社会においてごく当たり前のようになっていることが、この社会におけるありとあらゆる差別や社会問題を生み出していると考えており、こういったことが当たり前のようになっている限りこの社会から差別や社会問題をなくすことはできないと考えています。この記事では「トランスジェンダー」の当事者の容姿や体型を指摘する発言についてのみ取り上げましたが、「トランスジェンダー」の当事者の容姿や体型に関する話題が出ることがごく当たり前のようになっている現状の問題は「トランスジェンダー」の当事者だけの問題ではなく、一般的な「ルッキズム」の問題とも地続きになっている問題でもあります。容姿や体型に関する話題が出ることがごく当たり前のようになっている現状は、人々の自己肯定感を低下させる原因となるものであるため、なくしていく必要のあるものです。まずはこういったこの社会においてごく当たり前のようになっている明らかに問題のあることを、「このようなことがこの社会において当たり前のようになっているのはおかしいことなのではないか」と疑問を持つことが必要だと、私は考えます。

 

なお、私はこの社会から「トランスルッキズム」をなくすためには、「トランスジェンダー」の当事者がドラマや映画などにおける「トランスジェンダー」の役を演じる必要があると考えています。というのも、「シスジェンダー」の人が「トランスジェンダー」の役を演じた場合、世間に誤った「トランスジェンダー」のイメージを伝えてしまうことになりかねないからです。そもそもの話、「トランスジェンダー」の当事者が「トランスジェンダー」の役を演じることが当たり前になっていないということは、それ自体が「トランスジェンダー」というものが独自の「セクシュアリティ」とみなされていない現状が存在するということであり、「トランスジェンダーの女性」が「シスジェンダーの男性」と同一視されたり、「トランスジェンダーの男性」が「シスジェンダーの女性」と同一視されたりするようなことが絶えないのは、こういったドラマや映画などにおける「トランスジェンダー」の役をどのような人が演じるのかといったことに関する扱いの影響もあるということが考えられます。ドラマや映画などにおいて「トランスジェンダー」の当事者が「トランスジェンダー」の役を当たり前のように演じることができるようにするためには社会の環境の改善が必要であるため、まずは「トランスジェンダー」の当事者が自分の「性別」や「セクシュアリティ」と同じ「性別」や「セクシュアリティ」の役を演じることは、「シスジェンダー」の人が自分の「性別」や「セクシュアリティ」と同じ「性別」や「セクシュアリティ」の役を演じることと全く同じことであり、そのため「トランスジェンダー」の役は「トランスジェンダー」の当事者が演じる必要があるものである、という考えをこの社会に浸透させることが重要だと私は考えます。