虐待をしながらも蓮を意地でも育てた1年と

乳児院に入れて引き取れるタイミングを見た今と


どっちが良かったんですかね?


蓮を緊急保護された数日後に
夫のお義母さんや妹ちゃん夫婦達が20時ぐらいに
突然来て
散々説教して帰っていきました。


お義母さんからは「育児放棄だ」と言われ
妹ちゃんには「バカ女だと思ってた」と言われ

怒り狂いました。

私の愛情を全否定された苦しみは今も消えません。

母が聞いたらきっと内心『ざまーみろ』と想うと思います。


なぜなら母は『自分の娘に虐待者にされた』と思っているからです。


母は私を叩いたことを決して反省しません。

「厳しく育て過ぎた」
「悪かった」

などと言いますが

最終的には「おまえが悪い」と必ず言います。


自分のプライドを守って育てた方が良かったのでしょうか?


私は殺す為に産んだわけでもなければ
蓮を虐待する為に産んだわけでもありません。


お義母さん達の反応は
至極当たり前であり
世間一般の方達の反応です。


そして
お義母さん達の考えもまた正しいのです。



そうなると
やっぱり私が悪い母親であり、間違った判断だということになります。




乳児院に預けることが育児放棄なら
保育所や幼稚園に預けることもまた育児放棄です。





救われないし報われないなぁって思います。






突き詰めていけば

【そもそも持病がある人間が子どもを産むべきではない】って話になりますが

じゃあなぜ
私は岡山先生に出会ったのでしょうか?



岡山先生のような
「持病があるから産まないなんて哀しいじゃない」

という考えを持つ
産科の先生がいるのでしょうか?




なぜあのタイミングで岡山先生だったのでしょうか?




産科の先生は10名ほどいるようで
外来も出産当日の先生も基本的に選べません。



緊急管理入院した外来の日の時も
緊急帝王切開をしなければならなかった日も





なぜ岡山先生が担当してくれたのでしょうか?




主治医になってくれたのでしょうか?





なぜ他の病院に行こうとする私を止めたのでしょうか?



岡山先生は男性であり
あくまで医師なのになぜ私でもないのに

なぜ私の気持ちを100%わかったのでしょうか?






主治医に関しては病院のルールがあり
執刀医も主治医だからしてもらえたのでしょうが






岡山先生に出会えた奇跡はどう説明がつくのでしょうか?





1年経ちましたが
あの
岡山先生と助産師の遠山先生に初めて会った日

緊急管理入院した日
その日から1週間の入院期間
緊急帝王切開しなければならなかった日
産後9日間の入院期間での出来事


忘れられません。




岡山先生に出会うまでは
産科の先生全員が
「判断は22週までに決めてください」や
「頑張りましょう」しか言ってくれず


助産師の遠山さんに出会うまでは
助産師さん達は流れ作業としての保健指導。



千葉大に行くことも
妊婦検診に行くことも
全て意味を見出せずになっていました。





蓮がお腹にいる時の存在感は凄くて
9週からの存在感は半端なくて
愛しい気持ちは抑えきれなくて
お腹に話しかける時は恥ずかしくて
夫がいない空間しかお腹に話しかけられなくて
『蓮は助けに来てくれた』という感覚は不思議で。


岡山先生との出会いは
【どんなあなたでも産んでいいんだよ。お母さんになっていいんだよ】
って言われてるみたいで不思議です。



社会福祉協議会の方々を始め
役所の方々にもたくさん助けてもらいました。

狛さんや湯浅さん達がいてくれなきゃ
あの時は乗り切れませんでした。




もう本当に頭が上がりません。





地域連携部の江島さんには
岡山先生がいる病院に移ってから
わりとすぐに相談に行き

泣きながら話を聞いてもらうこともありました。


妊娠週数が進むにつれ問題が山積みになって
打破しようと頑張っても頑張っても解決しなくて
パンクしながら話してる時に

私に代わって
紙にカテゴリー別で書いてくれました。


狛さんも同じ手法で紙に書いてくれた最後の日は
もうたった一つの道しかありませんでした。





母として自問自答している時
自信がどんどんなくなっていくと
決まって

「持病があるから産まないなんて、哀しいじゃない」


その言葉を思い出します。




もっと原点に帰れば

1番最初に見てもらった病院の
先生とナースさんが
親身になって話を聞いてくれて



「産む方法はいくらでもある」



あの言葉がなければ、蓮はこの世にいません。





つわりとパニックで電車に乗れず
妊婦検診に行けなかった時

薬を飲むことが出来ず
泣きながら話をナースさんに電話した時に
気が済むまで話を聞いてくれました。



あの電話を切った日

『ごめんねごめんね』と号泣しながら
薬を飲まないと妊娠継続出来ない自分をしばらく責め続けました。


ただただひたすらお腹にいる蓮に平謝りしました。






その想いを江島さんに話した時に
岡山先生にすべての情報を渡したあとの

岡山先生の私への言葉はすべて素晴らしかったです。


先生の表情は
口元は笑っていたけど
目は笑っていませんでした。


岡山先生に出会った日は
6週間ぶりの受診だったのが大きかったんだと思います。

それまでずっと夫の問題と格闘していて
お腹の子と自分を後回しにしていました。


先生は私が抱えてるすべての問題に
1個1個先生なりの答えをくれました。



違う病院へ転院しなければならない問題も
先生は断固反対。


江島さんは「この病院で産みたい」と望む私の希望を解決するべく役所の方々に電話してくれていました。



代謝内科のナースさんにもお世話になりました。

名前もしっかり覚えてます。







産後に受診した後もナースさんは私を覚えてくれていました。







今薬を躊躇いなく飲めるのは
岡山先生のおかげです。






あの
先生と初めて会った日から
先生なりの答えをくれた時に
薬に関しても納得出来たからです。







全て納得出来ました。






だから頑張れました。





緊急管理入院を決意した日も

先生が

「もしこれで家に帰ったら責任が取れない」

その言葉を聞いたからです。







そして
あの日に限っては
インスリンの量と食事の量が合わず
初めて低血糖になりました。





あれも怖かったです。






極めつけは
自宅で自分で自分の面倒を見ること…


つまり


自分+お腹の子+夫
この3人分頑張ることに限界を超えていました。




限界でした。

そしてずっと不安だったのです。
ずっと異常に気づいていました。

ネットで調べて
最悪の答えに辿り着いていたからです。



夫は楽観的で
私が不安な気持ちを話しても
真面目に聞いてくれません。



私の気持ちもわかってくれて
お腹の子のこともわかってくれる
誰か

が、必要でした。




目の前で

私とお腹の子を助けてくれる人が私達には必要でした。





これからの人生
あの時の岡山先生達に
何度も何度も救われるんだと思います。






よく頑張ってくれた
自分の腎臓も
自分自身もを褒めまくりながら
自分を優先しながら
蓮の育児に励みたいと思います。





岡山先生
本当にありがとうございました。