オランダは、子供の幸福度調査で先進21カ国中一位。日本では30%弱が孤独感を感じているが、オランダでは、わずか2.9%。
オランダは、ヨーロッパのなかで特殊。北欧のように福祉を重視しながら、いかに税金をかけずに幸福を実感できるか、市場経済でも強い国にできるかについて、知恵を絞っている。
このトウモロコシづくりの名人、SexyでHappyなOptimistだと思うのです。私たちのことは、自分のことである。自分の枠を消しさることで、自分がSexyに生きる姿勢が見えてきます。このストーリーを紹介してくださった、IWAIさんに感謝して・・・。
■トウモロコシ作りの名人
●ある国にトウモロコシ作りの名人がいた。どうしてよい作物を作れるのか。秘密を探っていくと、彼が自分の農場でとれた良質の種を惜しみなく隣近所に与えていたことが分かった。なぜか?彼は明快に語った。トウモロコシの花粉は風によって、あちこちの畑に飛ばされる。ゆえに近隣の人が品質の悪いものを作れば、受粉によって自分のトウモロコシの品質もおちる。良いものを作るには、皆が良いものを作れるように手伝わなければならないと―。
●今、中国のCO2の排出量は、米国を抜いて世界一となってしまった。その原因の一端は日本にもあるのではないか。安い賃金を求めて、日本企業はこぞって中国に進出し、工場を建設。北京オリンピックでは、余りの空気の悪さにマラソン出場を拒否した選手もいたほどだ。
●日本では、高度経済成長期(1950年代後半から1970年代)に、公害により水俣病(註1)、第二水俣病(註2)、イタイイタイ病(註3)、四日市ぜんそく(註4)が住民に大きな被害がもたらされ、まるで公害の実験を試みているような状況であった。公害の被害の大きかった上記を「四大公害病」といわれています。
●40年前多摩川では、工場の廃液や家庭の生活排水により、大きな泡の塊をあちこちに見ることができました。国や企業は、法規制や廃液処理対策に力をいれ、川や海は徐々に浄化されて、川に魚が戻り、空気もきれいになり光化学スモッグ情報も出なくなりました。この貴重な経験を日本は積極的に中国に生かし、第二の公害実験国とならないよう技術援助をしていくべきではないでしょうか。
●イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー博士は、「はるか六世紀の時点で日本が中国の仏教を導入することによって、文明化を進めたという事実を世界史の上からも特筆すべきことである」とされ、中国文明の恩恵は計り知れないことを強調されています。
●日本の中国侵略による莫大な賠償金も、「悪いのは一部の軍部であり、民衆に責任はない」として、中国は全て放棄してくれました。今の日本の発展は、賠償金の支払があったならありえないとする識者もおります。
中国は日本にとって大恩ある国であり、環境問題は、トウモロコシ作りと同様、一国だけの問題ではありえません。放置すれば、多大な影響が日本にも表れてくることでしょう。手遅れにならないうちに・・・。
場の研究会を主催する、清水先生の一言。科学でまだ説明できていない領域に、生命を知るうえで重要なメッセージがあるということでしょうか。じっくり味わいたいと思います。
私の話を難しくてまったく分からないという方が多いので困って しまうことが多いのですが、その理由をよく考えてみると、機械 論的にものごとを理解するという立場を守りながら理解しようとしているところにあると思われます。機械論の大きな特徴が要素還元論です。つまり、原子のように変化をすることがない要素(本当は変化をするのですが・・・)を組み立てて分子をつくり、その分子は変化をしないとして、細胞を組み立てる、そして人間を組み立て、会社を組み立て、社会を組み立てていくという考え方ですね。積み木細工のように線形的で、まことに単純です。この方法を裏から支えているものが素朴認識論です。それは人間の五感が捉える通りに世界が存在しているという単純な認識論です。
現在のIT技術も、大まかに言えば、要素還元論と素朴認識論を基盤にした線形理論です。しかしこの機械論的方法では生命を説明することはできません。それはたとえば私たち自身のことを考えてみれば分かることですが、人間というものは関係が変われば変化をするもので、変化をしない機械的な要素とは本質的に異なっていることは自明です。
人間の五感によってキャッチできないものは存在しないという前提で情報理論をつくると、五感でつかむことができない情報の意味というものは存在しないことになってしまいます。その結果、たとえば単語を意味が固定されている意味要素であると要素還元論的に考えて、その単語の意味を組み立てて文章の意味をつくることができるか、また文章を組み立てて思想をつくることができると考える素朴認識論的な情報技術が生まれてきます。しかしそれは不可能であると、考えるのが私の立場です。(これが不可能であることを認められないのが情報の要素還元論です。)
「情報には記号論と意味論とがあるが私たちの理論は意味論を将来の問題にまわして取り扱っていない」という趣旨のことを、シャノンとウィーヴァーは有名な「通信の理論」に書いています。この理論が出て情報技術の幕が開けられたのが大戦後の間もない頃ですが、情報の意味を取り扱う情報理論はまだ生まれていません。記号論だけが暴走しているのが社会の現状です。その理由は科学技術的方法によって自己を議論することがまだできないからです。
自己が存在しないところには意味も存在しないのです。場の理論は自己とは何かを、たとえ完全でなくても、一歩踏み込んで科学的に捉えようとする試みと関係しています。またそれは情報の意味論とも関係があります。私の話が難しいといわれるところに、情報の記号論と意味論の間の本質的なギャップがあるのです。それは機械論と生命論の間の本質的なギャップでもあるのです。またそれは自己の存在に関心をもつか、もたないかの間のギャップでもあります。現在、近代文明(機械論的文明)から地球文明(生命論的文明)への転移がおきています。その転移とは、このようなギャップを乗り越えることです。