この記事の続き。

 

 

 

 

 

何年か前はとにかく現実を変えることだけに興味があったのだけど、

 

最近は現実を上手くいかせるための方法や行動やメソッドよりももっともっと根本的なもの。

 

 

 

 

 

どうすれば私の中に「指針」を持つことができるのか?

 

そっちの方が気になるようになっていきました。

 

 

 

 

 

それまでは、何かを決めるときはいつも

 

これで合ってるのかな?

間違ってないかな?

 

そんな気持ちが湧いていた。

 

過去に学んだメソッドや自分よりもすごい人たちの言っていることと、自分の行動がズレていないかが気になっていた。

 

 

 

 

 

だって、私よりも素晴らしい現実を創造している人たちがたくさんいるんだから

 

その人たちの考え方や提唱しているメソッドに沿っていないと現実は上手くいかないはず。

 

だから、そこからズレていないかがいつも気になる!

 

 

 

 

 

そんな風に、私の中には「私以外の誰かの感覚」がいつも存在していて

 

何かを決めるときはいつも「私以外の誰かの感覚」を通さないと不安になった。

 

 

 

 

 

だけど、あるとき気付いたんです。

 

 

 

 

 

いつもいつもいつも「私以外の誰かの感覚」を探っていること。

 

これで合っているのかな?と不安になること。

 

メソッドがないと自由に何も決められないこと。

 

そんな自分を本当は「煩わしい」と感じていることに。

 

 

 

 

 

本当は「上手くいくかどうか」を気にしたくない。

 

「合っているのか間違っているのか」を気にしたくない。

 

「すごい人が言ってることに一致しているか」も気にしたくない。

 

なーーーーーんにも、気にしたくない!!

 

 

 

 

 

何にも気にせず、もっと目の前の世界を楽しみたい。

 

私が本当に感じている感覚を楽しみたい。

 

上手くいくかどうかよりも生きていることをもっと楽しみたい。

 

 

 

 

 

そんな願いを自覚してから、自分で勝手に「私よりも力がある人たち」を作り出すことをやめました。

 

何かを選択するときにメソッドに照らし合わせることも、

 

合っているかどうかを考えることもやめた。

 

 

 

 

 

その代わりに、私自身の体の感覚。

 

体感覚に意識を向けるようになりました。

 

 

 

 

 

私よりもすごい人たちや、人生を上手くいかせるためのメソッドに向けていた意識を

 

自分の体感覚(体で感じている感覚)に向けてみると

 

これまで気付かなかったことが不思議なくらい、私の体が全てを教えてくれていたことを知った。

 

 

 

 

 

進むとき。

立ち止まるとき。

源との繋がりを感じているとき。

源との繋がりが途絶えているとき。

本当はやってみたいこと。

本当はやりたくないこと。

 

 

 

 

 

ちゃんと受け取ろうとする姿勢があれば、体感覚が全てを教えてくれていた。

 

だけど、あまりにも私が外側の誰かや何かを指針にしていたから

 

私自身がずっと送ってくれていたメッセージに気付くことができなかったんだ。

 

 

 

 

 

外側に指針を求めていたときと

 

自分の内側で感じている体の感覚を指針にしはじめてからでは

 

生きる感覚がまるっきり変わってしまった。

 

一体どうやって生きていたんだろう?と不思議に感じるくらい

 

体感覚を指針に生きはじめてから普通にしているときの安堵感が増したのだ。

 

 

 

 

 

それってきっと、私だけじゃないはず。

 

本当は誰もがみんな外側の誰かや何かではなくて

 

私自身の内側に生きていくための「指針」を持ちたいのだと思う。

 

 

 

 

 

合ってるかな?

間違ってないかな?

正しいかな?

 

そんなのなーーーんにも気にせずに、何も追いかけず私だけのペースで

 

しっかりと「私」と繋がって生きていくことが本当に求めていることだと思うから。