勉強をしていると、その年に流れていた音楽やドラマに疎くなるのはあるあるです。
最近だと、嵐の二人と菅田君の結婚は年末に知りました。
そうはいっても、経済情勢と世界情勢だけは疎くならない程度に耳には入れておこうと思っています。
なので、ウクライナ情勢については、その日の終わりに情報を確認することは出てきました。
私の母は結婚前、地方の地元新聞社で記者をやっていたことや、大学時代に安保闘争をやっていた人なので、政治や情勢には敏感な親を見て育ってきたというところもあります。
ただ、母はジャーナリストではないですし、地方の新聞は基本的に全国版の社会欄・政治欄などは記事を買って貼りつけているだけなので、記者魂があるわけではありません。
それに一昔前の女性ですから、記者として取材活動をしていたわけでもなく、尖った記事を書いていたわけでもなく、地元の家庭欄を中心に時々記事を書く感じだったようです。
それに、母と話しているとすごく滅入るのですが、会話の中で「事実」と「主観」を混ぜて話してくるので、全部をそうかそうかと聞けない危うさがあります。
でもありがたいことに、たぶん一般的な家庭に比べれば、政治については人並み以上に母子で討論してきたと思います。
そう言った育ちの中で気づいたのは、新聞社ごとに、そして放送各局ごとに、主義主張のキャラクターが全く違うということ。
報道に敏感な人には当たり前のことなのだと思いますが、主義が異なれば真実も異なって見えてくるという恐ろしさがあります。
見せ方ひとつで、真実はあっちにもこっちにも複数出てきます。
20年と21年は、そのことを顕著に感じました。
そしてウクライナ情勢も、やはり同じことを感じています。
報道との向き合い方 * 1つ目
こういうご時世ですから、報道とどう向き合っているのか、私が自分の信条としていることが幾つかあります。
まず一つ目は、より多くの情報を集めること。
お気に入りの番組や放送局、よく読む新聞を絞ってしまうと、自分の主義が偏りがちになるので、相反する意見も含めて、できるだけ広く見聞を耳に入れるようにすること。
報道との向き合い方 * 2つ目
二つ目に、報道を信じること。
上に書いてきたことと合わないかもしれませんが、私が一番恐れていることは、自分が一つの主義に固まること以上に、報道を信じずに、報道によって民衆は操作されていると思ってしまうこともまた、強く恐れています。
報道を信じなくなったら、そこにある「事実」までも、偽物だと思ってしまい、そうなると全体が偽物にしか見えない状態になってしまうからです。
私はある時期、こういう状態に陥ったことがあるので、他者を信じなくなることを特に畏れています。
報道とは、情報が玉石混交なだけあって、全体を否定してしまうと、その中にある「事実」までも見落とす危険が出てきます。
国によっては、すでに報道自体が政治的に操作されたものしかないということもありますが、少なくとも日本の報道は、「事実」と「主義」が混ざったものばかりです。
統率のとれた情報統制ではなく、各報道が、事実に自分達の主義主張を練りこむだけであって、皮を剥けば、そこにちゃんと事実があるというところを、見誤ってはいけないと思うのです。
もちろん中には、皮を剥いたら事実は全くどこにもなかったという低次元の記事もあるので、それも含めて、ちゃんと装飾を丁寧に削いでいくことは重要です。
まずはそこにある情報を「真」と受けとめて、そこから余計な主義主張を取り除いた「事実」だけを見つけるようにします。
これは、監査の手法の、まずは「真」と受けとめた上で、懐疑心を発揮するというものと非常に感覚が近いです。
あと名言だなと思ったのが、ドラマ99.9で、「100人いれば100通りの真実があるけど、事実はたった一つしかない」といもの。
真実と事実を一括りに考える人は多いですが、ここをきちんと分けて考えないと、考え方は一気に、報道は信用ならないという誤った結論になってしまいがちです。
報道との向き合い方 * 3つ目
ということで、三つ目。
「真実」と「事実」をちゃんと見分ける力をつけること。
真実と事実を見分けるために、一つ目にも書いた、情報をたくさん集めることにもつながります。
より多くの情報を集めて、より多くの真実を見比べて、そこから「動かない事実」を見つける作業が、何よりも必要なことです。
真実は、時代とともに変わりますし、人によって変わります。
それに、信用度の低い情報ばかりを集めて、ほとんどそこに事実はないのに事実があるように思いこんでしまうのもよくないですし、ほどよく信用のおける媒体から幾つか情報を集積して、そこからジャッジする必要があります。
というこの辺の話は、やっぱり監査論とかぶります。
監査論を勉強していると、監査だけでなく、社会を生きていく上で、身につけておくと良い手法がけっこう散らばっているように思うことが多いです。
つまり、普遍的な概念が凝縮されているので、主語を置き換えるだけで、いろんな場面に使えるものが多いということです。
報道との向き合い方 * 4つ目
最後、四つ目は、事実のみを評価することに徹すること。
これは母を見ていての反面教師なのですが、一旦、自分の中で主義主張を築いてしまうと、その後、時代が変わった時に、新しい価値観についていけなくなってしまう可能性が出てきます。
主義主張を濃く持つ人の特徴は、一つの真実にのめりこんで、他の真実を否定する癖がついてしまっていることです。
一つの真実を自分の中で固めてしまうことで、他の真実は否定したくなりますし、時代の移り変わりで真実が合わなくなってきても、なかなかそこから抜け出られなくなってしまいます。
まずよく見かけることなのですが、人は、世の中にある複数の真実に対してジャッジをしがちです。
Yahoo!の掲示板などがまさにそうです。
あの真実はダメだ、あの真実は納得できる、そいうことをやっていると、すごく自分がわかっているような錯覚に陥って、気づくと一つの主義主張に偏っていく危うさに陥ります。
自分では公平にジャッジしているつもりが、気づくと、一方の主義にはまって、その中でジャッジしていることに陥ります。
自分は平等に見ていると思っていても、偏りは起きます。
だから、真実に自分の思いを寄せすぎることを、避けています。
真実を議論の真ん中に置いてジャッジする癖をつけると、どんどんと事実を見失っていくことになります。
できるだけ事実だけを見て、その事実に対して「今の自分」「今の私」を軸に評価をするものの、それ以上に踏み込んで評価を絶対的にしないようにしています。
そして、主体の自分がジャッジする基準は、あくまでも「今」だけのことだと。
明日の世界、明日の自分は、この評価を覆す可能性があるということを、念頭において、事実を評価するようにしています。
この「評価」に色をつけてしまうと、これがとたんに「主義主張」になってしまうので、できる限り、色を排除した評価だけを自分に残すようにしています。
監査論ではよく、監査の段階で「評価」することがありますが、この「評価」が意味することは非常に厳密で、言い得て妙だと思っています。
報道との向き合い方 * 5つ目
5つ目は、専門家の意見を必ず軸にすること。
専門家も玉石混交なので、やはり4つ目までの向き合い方と同じ姿勢が必要になりますが、必ず複数人のものを見比べます。
で次に、真実について書こうとして、ハッとしました。
哲学では、この「真実」をプラトン並みに討論するのですが、それを始めたら延々と終わらないので。
ここまでにします。
ではでは。