娘が、公文を始めました。
3歳4ヶ月でのスタートです。
そして今さらのネタ晴らしですが、私…
主人と結婚する前、「公文の先生」をしていました。
採点のスタッフさんではなくて、教室指導者。
先に記事にしていた、フランチャイズのオーナーというのは、この公文の指導者のことです。
実家から車で15分ほどのところで開業しました。
指導者になったのは、28歳~33歳の5年間です。
その教室は、前任者の方から引き継いだのですが、当時は6名ぐらいの小さな教室でした。
それが最終的には、60名強のお子さんたちが教室に通う教室になってくれました。
また私は当時独身でしたが、だからこそ弱くなりがちな幼児期に力を入れたことから、2歳から通う子も普通にいるような教室になり、自然と口コミも広がっていきました。
おかげさまで、特に受験塾ではなかったのにもかかわらず、春になると「○○幼稚園に合格しました」「××小学校に」とご報告いただけるような、そんな状況にもなっていました。
…私は何も受験にタッチしていなかったので、結果を聞いて初めて知ることもありました(笑
といっても幼児のお子さんばかりではなかったです。
私立の高校受験に合格した子も数名、早稲田に合格した子、明治学院など都内私立に合格した子も何人か面倒見ていました。
もちろん公文は受験塾ではないので、直接的に受験指導はしていませんでしたが、縁の下でいろいろとアドバイスも含め勉強指導はしていました。
とまあ、これだけバラエティ豊かな教室なので、スタッフ先生も7人いました。
教室を始めた当初はスタッフ先生1名だったので、そのほかの方々は、面接などもして、労働契約もいろいろと自分なりに調べて、契約書類を作成して…なんてこともしながら、6名の方を採用していきました。
その7人の先生方と、チームプレーで60名強の生徒さんたちを動かしていました。
60名と言っても、一人2教科or3教科している子もざらに居たので、教室をしている瞬間はまさにチームプレーがなくては、滞りなく一人ひとりがその日の学習を充実させることはできませんでした。
併せて、公文は「先取り学習」をする学習塾でしたから、毎回の教室は本当に一瞬も気の許せない瞬間瞬間の積み重ねだったと言えます。
最終的には結婚を契機に教室をやめる…廃業することになり、そのお教室は、他の先生にお譲りすることにしたのですが。
最後の頃は、「先生には公文、天職ですよね~」って口にしてくださる保護者の方も何人かいらして、何人かの方からは「なんでやめちゃうの~」と言われました。
保護者のお母様方、時にはおばあさまやおじいさまから、親身に頼ってきてくださり、「独身の私にこんなにお話してくださるんですか」と内心はらはらしながらも、一生懸命に対応してきた結果なんだと思います。
今だからそう思えますが、当時は「先生」って言われることは本当はひやひやしていて、その呼称に恥じることのない指導をしたいと思って、たくさん学んで、学んだことを教室に生かしていました。
だから、教室をやめるというお知らせを出した時には、何人かの保護者の方からは惜しむ声をいただき、それはスタッフの先生からもあり、だいぶ後ろ髪をひかれる想いで、教室から離れました。
でも最後には、皆さん子どもを持った母親なので、「先生にはぜひ母親になってほしい。結婚おめでとう」という形で、お祝いの言葉をいただけました。
そんなわけで、思いっきりどっぷり公文の指導者をした5年間。
やれることは全力で尽くしたつもりです。
だから今、子どもを連れて、公文の教室の扉をたたくのは、不思議な感じでもあり、そしてドキドキでもあり、昔の「血」を思い出してしまうのです。
自分の教室ではなくても、全国どこに行っても、公文をする子どもの顔はおんなじで、教室のにおいみたいなものは、やはり私をドキドキさせます。
あの頃の私は、夢の中でも公文していました。
そのぐらい真剣な5年間でした。
今はというと、ふいに公文の教室に足を踏み込んだ時、「あれ?まだ余裕があるじゃない…わたし」って思いました。
いや、本気なんだけれど、まだ、、、
あの頃の必死さを思えば、まだ自分は余裕があると思うのです。
たぶん、あの頃よりも、間違いなく私自身が成長しているので(子育てを通してだいぶタフになったと思います)、だから余裕があるのだと思います。
昔の私だったら、今頃ヒーヒー泣いている(笑
でもこうしてタフになったんだから、もっともっとタフになりたいという欲望も。
さあ!まだまだ向上していかないとね!
あの頃の自分に、負けてられないよ!