今回紹介するのは、『ダーティ・キッズ/ぶきみくん』(『The Garbage Pail Kids Movie』1987年 アメリカ)であります。原題に「Movie(映画版)」と付いているのは、元ネタが在るから。まずはその説明から。
1983,4年頃、「アメリカで大人気」と言う触れ込で、「キャベツ畑人形」なる物が日本でも販売された。日本では、全然売れなかった。「アメリカ人ってこう言うのを可愛いって思うんだ」と思ったものだった。
そして、その「キャベツ畑人形 (Cabbage Patch Kids)」のパロディが「生ゴミバケツ人形(Garbage Pail Kids)」である。「生ゴミバケツ人形」ってのは筆者が訳したんだけど、英語の駄洒落だからねぇ、日本語にするとパロディだと分かんないね。パロディの方は人形ではなく、ビックリマンみたいなカードシール。日本では「ぶきみくん」カードとして販売されていた。古くからトレーディングカードを販売していたTopps社が、新たに手掛けたカードシリーズが、「Garbage Pail Kids」カードである。このカードに描かれているキャラクター達は、可愛さとは対極に在る存在だったりする。姿形、体質、その能力なんかが、物凄く異質なのだ。こう言うの受けるの?って感じだけど、アメリカでは受けているのだ。現在形なのは、近年でも新シリーズが時折発売されてるから。
初期のイラストを一手に引き受けていたジョン・パウンドを、描き手として推薦したのが、同社で顧問をしていたイラストレーター・漫画家のアート・スピーゲルマンである。後に「マウス アウシュビッツを生きのびた父親の物語」と言う漫画で、ピューリッツアー賞の特別賞を受賞した人物である。
それでは、映画本編の方へ。タイトルバックは宇宙を漂うゴミバケツ、って事は「ぶきみくん」達は宇宙生物って事ですか?まぁ、ゴミバケツの中ではスライム状だしね。そんな彼らが地球に降り立ち、街で大騒動を繰り広げる…って程の事でも無かった。少しはやるけど。
ジョー・ダンテ監督の『グレムリン』のヒットで、『グーリーズ』『クリッター』『まんちぃず』と、小鬼が暴れるSFホラーコメディがこの頃ちょっとしたブームだった。本作もその路線なのかと思ったが、そうでは無かった。
美醜と言うのは見た目ではなく心なんだ、と訴える為に必要なお膳立てみたいな存在だった。しかし、その辺りの感情が強く出過ぎたのか、「ぶきみくん」達に嫌悪感を露わにする登場人物が殆どいない。街中に出て、バーで荒くれバイカー達と喧嘩騒ぎを起こしたり、映画館で騒いだりしても、迷惑行為に眉をひそめても、姿形に驚いたり嫌がったりをする人達がほぼ居ないのだ。それじゃあ、主人公の少年ドジャー、「ぶきみくん」達の保護者的存在の骨董品屋店主キャプテン・マンジーニら味方が、彼らと仲良くしている事が引き立たないと思うが。
話の中心は、ドジャーである。それと、ドジャーをイジメる街の不良四人組。その中のリーダー格ジュースのカノジョ、タンジェリンだけは、直接イジメる事はしない。そんなちょっと優しい、のかもしれない、年上美人に惹かれるドジャー。結構イイ根性をしている。このドジャーの心の成長がテーマである。正直な話、話の内容から言ったら「ぶきみくん」達はそれ程必要では無いのである。タンジェリンは、自分の夢の為に「ぶきみくん」達(とドジャー自身)を利用するのである。その事に気が付いたドジャーは、タンジェリンに「もう、君の事を可愛いとは思っていない」と決別するのである。ここ、実際のセリフ上で、「Pretty」って言葉を使うんだけど、決別のセリフだったら、他の表現でも良かったと思うのだ。途中のシーンで、「ぶきみくん」達が不良グループ連中に「State Home for Ugly」(醜い連中収容所ってトコか)に売り飛ばされるんだけど、「Ugly」に対する「Pretty」で対比になってる。ここで、前述の「美醜は見た目ではなく心なんだ」の部分が出て来るのだ。ただ、少しばかり強引な気が(笑)。このクライマックスのくだりは、決して悪くは無いと思う。陳腐と言われるかも知れんが、青春のほろ苦さが有って、マジで、決して悪くは無いと思うのだ。二度言いました。
この映画、物凄く不評でアメリカでは散々な言われ様である。実際、PTAからの猛抗議で上映中止に追い込まれている。この辺り、下品な物を見せるな、って感じがする。公式な理由ではそんな事言って無いけどね。
トッド・ブラウニング監督の『フリークス』では、全米の見世物小屋で働いていた本物の奇形の人達を大挙登場させ、センセーションを巻き起こした。イギリスでは30年間以上、上映禁止となっていた。何だかんだと理由を付けても「そんな物を見せてはイカン」って事なんだよね。そう言う風に目を逸らす事が、尚更差別に繋がるんじゃないかと思うんだけど。
今回登場する「ぶきみくん」達は、顔中吹き出物だらけでしょっちゅうお漏らしするのやら、常に粘着質の鼻水垂らしてるのやら、おならばっかりしてるのやら、口臭が臭い赤ん坊だったりと、確かに下品かも知れんが、そこを笑い者にしたり、嫌悪したり、差別したりしちゃイカンだろう。「ぶきみくん」達が売り飛ばされた「State Home for Ugly」に収容されていた人々は、痩せ過ぎ、太り過ぎ、禿げ過ぎ、足悪過ぎ、頭悪過ぎ、年寄り過ぎ、毛深か過ぎ、小さ過ぎ。そう言う人達を差別したり、笑い者にしてはイカン、って事だとは思う。ただ、表現の仕方がねぇ。ちょっと、残念感が…。自ら差別的な感じにしちゃったらマズいだろう。作り手の思いが空回りしている気がする。
英語で、「gross-out」って言葉が在って、意味は「顔をそらせたくなるような(もの[こと])」要は「キモい」って感じなんだけど、コメディ映画、アニメ、漫画なんかに使われる事が多いらしい。この映画や、元になったカードも「gross-out」になるみたい。ジョン・ウォーターズ監督の『ピンク・フラミンゴ』、パンクロッカーのGG・アリンなんかも、そう言われてるって。ジョン・ウォーターズの映画や、GG・アリンの無茶苦茶なライブパフォーマンスや、ジョニー・ロットンがインタヴュー中にゲップしたりするのは、自らが良識派の眉をひそめさせる事をする訳で、あくまでも反体制のパンクスピリッツなんだよ。このカードでの容姿イジリってのは、全く別物でしょ。敢えて不快な行動をするのと、容姿とかを不快と感じる事を比べたら、容姿を不快と感じる方が、よっぽど「gross-out」な感じがするけどねぇ。
前述したアート・スピーゲルマンが、自分ではイラストを描かず、他人に依頼したのは、両親の人種差別経験が有るから、差別を助長する様なカードには、直接関わりを持ちたく無かったんじゃないかしら?などと感じたが、アート・スピーゲルマン本人が、この辺りの事を自ら言及している様な文章は見つけられなかったので、あくまでも筆者の憶測です。
今回、この映画を選んだのは、東京オリンピックの開幕前のゴタゴタや、開催中に問題提起されたSNSへの誹謗中傷の書き込みの件が有ったからなんだけど、正直、難しい。イジメ、差別はダメ、って言うのは簡単なんだけど、何故、そんな簡単な事が無くならないのか、って事を突き詰めちゃうとねぇ。前述のアート・スピーゲルマン「マウス」の中のスピーゲルマン本人のセリフで、「どうやって僕が意味づけられるんだろう?」ってのが在って。これは、アウシュビッツやホロコーストに関しての事なんだけど、まぁ、同じ様な事です。イジメは、人類の進化の為に必要不可欠な要素だった、ってな説も有るみたいだけど。今でも、イジメが無くならない訳だから、人類ってまだ進化するの?って感じなんだけど。イジメや差別が無くなった時代が無いんだから、進化の為の必要悪説ってのも、ナンカ、おかしな話である。
最後に少し、スタッフ、キャストに関して。監督はロッド(ロドニー)・アマトゥ。前回の『パニック・イン・ホスピタル』と同じ人。今回は、何故かやたらと力が入ってて、監督だけじゃ無く、製作、脚本まで手掛けている。しかし、それが裏目に出た様で、ここでキャリアにほぼ止めを刺される。この後はテレビシリーズの1エピソードを監督しただけ。因みに、『オー!ゴッド』のジョージ・バーンズの娘が、三人目のカミさんである。ジョージ・バーンズだとか、『オー!ゴッド』なんて映画は知らん、って向きもあるとは思うが、在ったんです。本稿、ここ迄で既に長くなってるので説明は省きます。他に、不良グループの片割れ、ウォーリーを演じていたのは監督の息子、J.P.アマトゥ。口臭が臭い赤ん坊フォウル・フィルの声を当てた、クロエ・アマトゥは監督の娘。家族で、父親最後の映画監督作に花を添えています。
主人公ドジャー役、マッケンジー・アスティンの母親は、パティ・デューク。『奇跡の人』(1962)でヘレン・ケラーを演じ、1979年のリメイク版ではサリバン先生を演じた人。マッケンジー・アスティン本人はテレビシリーズで結構活躍している様なので、どっかで見た事が有る、って感じかも?『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズなどに出演のショーン・アスティンは実の兄。
現在、ちょっと観る事が困難な映画ではあるけど、差別やイジメ、そう言った物事に対するアメリカ的考え、そんな事を考える一つのきっかけに成り得る映画じゃないか、そんな風に思います。万が一、日本でソフトが発売される様な事が有れば、一度手にしてみるのもイイかも?ただし、つまらなかったからと言って、筆者に対しての誹謗中傷はお断り願いたい。