小塚君のフィギュアスケートへの消えることのない思い。
今後、アイスショーに出てくれる日もあるのか?
氷上に戻って来てくれる?
~ニュース~
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「フィギュアスケートに恩返しを」
小塚崇彦が語る、新たな出発の決意。
posted2017/02/01 07:00
松原孝臣
photograph by
Shino Seki
昨春、「氷上を去る」という言葉とともに競技生活に終止符を打ち、トヨタ自動車に入社して10カ月。口にした言葉は、強烈な印象をもたらした。
「これからは、自分の技術を伝えることで、フィギュアスケート界に恩返しをしたいと考えています」
戻ってきた。帰ってきた。思わず、そんな言葉がよぎった。
「いや、戻るというよりも、違う言葉がふさわしいかもしれませんね」
小塚崇彦はそう答えると、入社後の日々、決断に至った経緯を語り始めた。
トヨタ各運動部の“恩返し活動”に携わる中で。
受け持ったのはスポーツとかかわる業務だった。
「トヨタには30を超える部があるんですけど、強化運動部と一般運動部に分かれていて、強化運動部の恩返し活動というところに携わっていました。
選手を派遣する、じゃあどういうイベントをどのようにやればいいのかを主な業務としていました。現場ではチケットのもぎりをしたり、人の割り振りをしたり。デスクワークが多くなるのかなと思っていましたが、出張が多い部署でした」
仕事の中で得たものは小さくなかった。
「基本的なことですが、メールを出して、電話して、企画して書類を作って、そこから決裁を通す。そういった社会の流れを知ることができたのはよかったと思います」
イベントを通じてさまざまな競技を知り、選手たちと接することができたのは刺激となった。
「主語がフィギュアスケートになっていましたね」
充実しているはずの業務の中、しかし、いつしか思いに駆られていた。
「こういったところを取り込めると、フィギュアスケートはもっとよくなるな」
「フィギュアスケートだったらこうやるのにな」
思考回路に、常にフィギュアスケートが浮かぶようになっていたのだ。
「そういうつもりでやっていなかったのですが、主語がフィギュアスケートになっていましたね」
例えば、10月に徳島で実施したラグビー部の選手たちによるふれあい体験のイベントは、小塚の心にこう刻まれた。
「子供たちの楽しそうな笑顔だったり、教えている人たちが楽しそうにやっているのを見て、フィギュアスケートでやれたらいいなと思い始めました」
そんな思いが頂点に達したのは11月下旬、ベトナムに行ったときだった。文化交流イベント「ジャパンベトナムフェスティバル」の1つとして、ホーチミンの「ビンコムメガモール」にあるスケートリンクでスケート教室が実施され、小塚も現地で活動した。
「育ててもらえたものを次の世代に伝える」役割。
「気づいたのが、選手のとき、たくさんの人たちに支えられていたということ。今までも分かっていましたが、それは目に見えている人たちだけだった。でも現場にいなくても、例えば僕がこうしてほしいと言うと、現場から話が行って、現場にいないけれど動いている人たちがいるのを知ったんです。フィギュアスケートをやっているときも、たくさんの人たちに助けてもらっていたんだな、と実感しました。
なのに、フィギュアスケートを終わりにしてしまうのはもったいないなと思いました。これだけ育ててもらえたものを次の世代に、たくさんの人に伝えるのは自分にとっての大切な役割だなと思いました」
では自分に伝えられるものは何かを考え、やがて結論に達した。――スケートの技術を伝えたい。
「信夫先生も父も身近にいすぎて」気付かなかった。
以前「日本のスケート技術は、佐藤信夫先生、小塚君のお父さん、小塚君と受け継がれている」と指摘した指導者がいた。小塚自身は、そうした視点を持っていなかったと言う。
「僕が愚かなところだと思うんですけど、信夫先生も父も身近にいすぎて、いい意味で空気みたいな存在だったので、そんなこと感じていなかったんですよね。でも考えてみると、ゴルフでも野球でも、最初に打ち方や投げ方の癖が決まってしまうように、スケートも基礎が重要です。なのにスケーティングを教えられる先生は限られている。
信夫先生が直接教えられるうちはいいですけど、体力的に衰えていくことも考えられますし、うちの父も、もうおじいちゃんです。自分が教えてもらったものを伝えられる限り伝えていくのが僕の使命かなと思いました。その数少ない先生から教えてもらった技術だからこそ、子供たちに伝えていかないといけない」
何よりも後押しとなったのは、あちこちでかけられた声だった。
リンクに行けば、子供たちから話しかけられた。
「選手やらないなら教えにきてよ」
「どうやったら連絡取れるの」
「時間あるときに教えてね」
会社に籍を置きつつ、普及活動に取り組むことに。
出先でも同様だった。
「新横浜で行なわれたジュニアグランプリのとき、徳島のイベントのとき、先日の全日本選手権のとき。『すごく応援していたんだよ』『スケート好きだったんだ』『もう一回滑るときはないの』。いろいろ声をかけてもらえました。『たまには滑っているんですよ』と答えると『そうじゃなくて、表に出てきて滑らないの』と言ってもらったり。
徳島のときには遠方から駆けつけてくれた方もいました。自分で思っていた以上に魅了することはできていたのかな、声をかけてもらえる選手だったんだなと気づかされた。それがいちばん大きかったですね」
決意を胸に会社と話し合いを重ねた。結果、了解を得られ、トヨタに籍を置きつつ、自身の望む活動を始めることが可能になった。
これからどのような活動に取り組んでいくのか。すると、まずは普及を挙げる。
「国内外問わずやりたいですね。ただ教室をやるだけではなく、自分が経験した怪我の恐ろしさ、スポーツをやる上でのクールダウンの大切さ、そういうのも含めた教室をできればいいなと思っています。ベトナムでもスケート教室は続けて行きたい。この前はホーチミンだけでしたが、ハノイとかほかのところでも開ければいいなと思っています。
また、ベトナムをはじめ東南アジアの国々では、連盟がないため大会に出られず困っている選手たちがいると思いますから、連盟を立ち上げるのも1つの目標になります。僕は日本から出ていて誇りに思いました。自分の生まれ育ったところから違う国に行かないと出られない状況を変えて、自国で育って自国で出る、そういう選手が育てばいいなと思っています」
「まずは体を動かして、しっかり練習もしながら……」
高いレベルの大会に出場する選手への指導は考えているのか。
「需要があれば、教えることはできるのかなとは思います。ただ、それも経験が必要だと思いますし、信夫先生にもいっぺんにいろいろなことをやってもうまくいかないと言われていたので、今は普及活動でがんばっていきたいと思います」
そして小塚自身もスケーターとして、例えばアイスショーに出演する可能性はあるのだろうか。
「まずは体を動かして、しっかり練習もしながら戻していきたいと思います。もしオファーをもらえるのであれば、しっかりアイスショーの一員としていいショーができればいいなと思います」
それらの言葉は、氷上に戻ることを意味していた。
「新たな形としてフィギュアスケートに携わる」
小塚はこう続けた。
「フィギュアスケートの世界に戻るというよりも、自分なりにいろいろな人と接する機会があって、いろいろなことに気づきました。ただ戻るだけではなく、新たな形としてフィギュアスケートに携わるという意識でいます」
そして照れたように笑う。
「短い時間でしたが、たくさんのことを経験させていただいた。上司は僕ができないなりに引っ張りあげてくれましたし、『小塚、がんばってこいよ』と言ってくれています。しっかり業務をしていきますという意思表示のために氷上を去ると表現しましたが、大目に見てもらえるといいなと思います」
距離をとってこそ、気づくことがある。気づけることがある。
選手であった頃、目に見えているよりももっと多くの人に支えられていたこと。
スケート人生で培ってきた、他の誰にもない技術を持っていること。多くの人の心に残る選手であったこと。
何よりも人生の大半において打ち込んできた、フィギュアスケートへの消えることのない思い。
異なる世界で得られた経験を踏まえ、フィギュアスケートに恩返しをしたいと決意した小塚崇彦は、今、新たなスタートを切った。
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http://number.bunshun.jp/articles/-/827355