シェークスピアのロジックな台詞と、構図の美しい舞台を観て感じだこと。

日本には余りロジックという文化がないので。

シェークスピアの笑いどころは少しずれてしまうのかなと思ったりしました。

道化役の方がよどみなく話す暗喩より、生の羊の方がウケが良かった。


移動の合間に電車の中でウトウト考えたこと。

お嬢は余りコトバを信じていません。

別に人間不信でもなんでもなく…。

単純にコトバというものの性質によるからだと思います。

コトバはそもそも音と意味との定義的なつながり…。

記号であり、ルールであり…。

アイという音が愛という意味と定義づけられているからこそ、機能するけれど、時代とともにその意味も変化していきます。
基本的に曖昧であり、抽象的で相対的な構造を持つもの。

Erasticなもの。

ヒトツのコトバに百の可能性と創造性が宿っているような気がします。

いくらでも変化していける柔軟性。

それは同時に様々なインスピレーションや広がり、可能性を持ち、ボクタチは発展してきたのかなぁと。

コトバの不確実性があるからこそ、人間は進化し、文明が生まれ、産業革命が起きて、近代社会が生まれたのかも。

それは人間の脳のシステムの柔軟性とリンクしているように感じられたり。

そもそも有機生命体というものは柔軟な性質を持つなあと思います。

もしコトバが数字や音楽のように、対象物に対する関係性を厳密に規定されていたら、僕達は今の文明を持つことは出来なかったかもしれない。

だからコトバはある人はこう言い、またある人はこう言い…と、キリがない。
もつれあい、漂い、そして消えていきます。

コトバは消えてしまうものだから、太古の人々は文字を作り出したのでした。


昔、日本の人はコトバには霊が宿ると考えていました。

結局コトバは人の心からぽろりと落ちる葉のようなもので、

真実は心にある。

だから言の葉と呼ばれたんでしょうか。

コトバが指し示す本質をよりタイセツにしていた気がします。

真実はこの世に存在しているとボクは思います。

真実として。

それはジブンの心にあるもの。または宇宙的な真実。事実や現実。

真実とコトバとは時にリンクし、時に離れていきます。

でも紛れもない真実というものは、きっといつもジブンの中にちゃんとあるんじゃないかな。

時に発見されていなくてホコリをかぶっているかも知れないけれど。


太古のキリスト教の修道僧の修行のヒトツに沈黙がありました。

ヒトコトもコトバを話さない…というもの。

真実を見つめるときコトバはいらないのかもしれません。


コトバが氾濫している情報化という社会の中でふとそんなことを思っていたら駅についたのでした。