4日目はエドフにてクルーズ船を下船し、

馬車でエドフ神殿(ホルス神殿)へ行きました。



エドフ神殿とは?

Wikipediaより

エドフ神殿(エドフしんでん、英語: Temple of Edfu)は、最高神ホルス=アポロより、アポロノポリス・マグナ (Apollonopolis Magna) としてギリシア・ローマの時代に知られたエドフの町の、ナイル川西岸に位置する古代エジプトの神殿 (Egyptian temple)。

エジプトで最も保存状態のよい神殿の1つである。


ハヤブサ神ホルスに捧げられたこの神殿は、エドフのホルス神殿として知られ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-32年)の紀元前237年から57年にかけて建造された。

その壁にある碑文は、古代エジプトのギリシア・ローマ時代における言語、神話、宗教について重要な情報を提供する。

特に、神殿に刻まれた建物の記載は「神殿の建設の詳細な記述を提供すると同時に、さらに創造の島のような本神殿ならびに他の神殿すべての神話的な解釈に関する情報を保持している」。

さらに「ホルスとセトとの長年の対立に関連する神聖な物語の重要な場面と碑文」がある。

それらはドイツのエドフ・プロジェクト (Edfu-Project) により翻訳されている。






歴史

エドフは、デンデラ、エスナ、コム・オンボ、フィラエを含むプトレマイオス朝時代に建造されたいくつかの神殿の1つであった。

その規模は時代の相対的な隆盛を反映している。

現在の神殿は「西暦紀元前237年8月23日に、まず列柱室、2つの横軸の広間、礼拝室に囲まれた聖舟の至聖所から成る」ところより始まった。

建築はプトレマイオス3世(紀元前246-221年)の統治時代に着手され、プトレマイオス12世(紀元前80-51年)のもと紀元前57年に完成した。

建物は、やはりホルスに捧げられた初期の小さな神殿の場所に築かれたが、以前の構造は東西を向いており、現在の敷地のように南北方向ではなかった。

崩壊した塔門(パイロン)は、現在の神殿のちょうど東にあり、碑文の証拠においては、新王国(紀元前1550-1069年頃)の支配者であるラムセス1世(紀元前1295-1294年頃)、セティ1世(紀元前1294-1279年頃)、およびラムセス2世(紀元前1279-1213年頃)のもとでの建設計画を示すものが見つかっている。



初期の建物の遺跡としてのネクタネボ2世(紀元前360-343年)の神殿は、内部の至聖所のなかに保存され、独立して立っており、神殿の聖舟至聖所は9つの礼拝室に囲まれている。



エドフ神殿は、西暦紀元391年のローマ帝国での非キリスト教崇拝を禁止するテオドシウス1世(379-395年)の勅令に従い宗教的な建物として用いられなくなった。

他のところと同様に、神殿に彫刻されたレリーフの多くは、エジプトを支配するために来たキリスト教信奉者により破壊された。

現在に見られる、列柱 (Hypostyle) 室の黒くなった天井は、当時異教とされた宗教的彫像の破壊を意図した放火によるものと考えられている。



何世紀にもわたり、神殿は吹き積もる砂漠の砂やナイル川によって堆積した川の沈泥の層の下12メートルの深さに埋没することとなった。

地元の住民は、かつての神殿敷地の上に家を建てた。

1798年に、唯一神殿の塔門の上部が視認されたことで、神殿がフランスの遠征によって確認された。

1860年には、フランスのエジプト学者のオギュスト・マリエットが、砂地からエドフ神殿を発掘、清掃する作業に着手した。


エドフ神殿はほとんど無傷であり、古代エジプト神殿の非常によい例である。

エドフの考古学的に重要であり、かつ保存状態の良い神殿は、ナイル川を巡航する多くの川船が頻繁に停留するエジプト観光 の中心となった。

2005年に、神殿への入場においてビジターセンターおよび舗装された駐車場が増設された。

2006年後半には、夜間の訪問ができるように精巧な照明装置が付け加えられた。


宗教的意義

エドフ神殿は、ハトホルおよびデンデラのホルスに捧げられた最大の神殿である。

そこはホルスに奉納するさまざまな祝祭の中心であった。

毎年、「ハトホルが、エドフのホルスを訪ねるためにデンデラの神殿から南に旅し、その2神の聖なる結婚を示すこの事柄が、大規模な祝祭および巡礼の要因となった」。





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過去記事「ホルス神」参照

https://ameblo.jp/happylife3749/entry-12424906185.html







4体のホルス神とツーショット撮れてご満悦♡



天井には天空の女神ヌトが描かれていました。

過去記事「ヌト、シュー、ゲブ」参照


ホルス神殿には馬車で行くのが主流みたいで、神殿前が馬車でごった返しておりました。


行きと帰りは同じ馬車に乗るので番号を覚えておくようにと言っています。


このおじさん、「フェラーリ!ナンバーワン!ナンバーワン!!」ばっか言ってて、確かに若い白馬だったので速く走ってたけど、いや別に急いでないし。

むしろゆっくり町並み見ながら行きたかったのに。

のに、チップをしつこく要求された。

ガイドさんが相応のチップを払っているので、私たちは払わなくていいので、払いませんでした。

早けりゃいいってもんじゃないのよ!


でも、風を感じながら馬車に揺られるのは気持ちよかったです。

陽射しが強いので、風が気持ち良いのです。


一度船に戻ってデッキでランチをし



ティータイムものんびり過ごし


クルーズ船からナイル川のサンセットを眺め


夜は、コム・オンボ神殿に出かけます。
ライトアップされた神殿も、幻想的で味がありますね。

コム・オンボ神殿とは?
Wikipediaより
コム・オンボ神殿(英語: Temple of Kom Ombo)は、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)にエジプトのコム・オンボの町に建設された、珍しい二重神殿である。
神殿はのちのローマ(支配)時代(紀元前30-紀元後395年)にいくらか増築されている。

建物の「二重」構造は、2神のために重複した中庭、広間、祭壇や部屋があったことを意味する類のないものである。
神殿の正面より向かって右側半分は、ハトホルやコンスとともに豊穣と世界の創造の神であるワニの神セベクに捧げられた。
一方、神殿の左側の部分は、大ホルス (Horus the Elder) の別名で知られるハヤブサの神ハロエリスに捧げられている。
神殿は変則的で、すべてが主軸を中心に完全な左右対称である。



神殿の後壁の内側表面にある場面は、特に興味深く、「おそらく1組の外科的器具を表す」。

付近で発見された300体のワニのミイラのいくつかが神殿内で示されている。

歴史
第18王朝(紀元前1550-1295年頃)のトトメス3世(紀元前1479-1425年頃)の遺物も発見されているが、現存の神殿は、プトレマイオス6世フィロメトル(紀元前180-145年)の治世の初めに開始され、他のプトレマイオス朝の王、特にプトレマイオス13世(紀元前51-47年)によって増築されて、内側と外側の多柱式の広間を建設した。
最も外側となる部分は、前庭とともにローマ時代に築かれた。


神殿の大部分は、ナイル川や地震で、そして後に他の事業にその石を使用した建築業者によって破壊された。
内側のレリーフの一部は、かつて教会として神殿を使用したコプト教徒により損傷した。
台地の南側にあるすべての神殿の建物は、残骸が片づけられ、1893年に ジャック・ド・モルガンによって修復された。


クレオパトラのカルトゥーシュ


そして、この日のクルーズ船のディナーパーティーは、ガラベイヤパーティーです!

乗船客が民族衣装を着て踊ります。
わたしが着てるのは、ホルス神殿前の露店で値切って買った15ドルの衣装です。
クレオパトラみたいだと好評でしたてへぺろ

いろんな国の人たちと舞台で踊って楽しかった♪
これぞ素晴らしい異文化交流!
豊かな時間を過ごさせて頂きました