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【最後、追記しました。】

大神神社に行ってきたので、三輪山と

私の地元、愛知県東三河地方にある石巻山との関係も取り上げておこうと思います。


ヤッズ氏のブログ記事を抜粋しますと

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-1723.html


石巻山は東海三神山の1つエイ州山で邪馬台国の倭人(弥生人)の巡礼地であり、この地に住んだ三輪氏が壬申の乱後、勝った天武天皇に取り立てられて三輪氏は大神神社の宮司になったといいますので、この時に石巻神社から御神体を勧進したのだろうと思います。


これが石巻山が大神神社(三輪山)の元宮と云われる所以です。


夏至・冬至・春秋分の日に石巻山山頂から太陽が昇るのを拝めるように配された3つの遥拝所があり、その各々を中心とした3つの同心円(=三輪)の上に多くの神社仏閣が配置されていることや、石巻山山頂と石巻神社上社と一の鳥居を結ぶラインが大神神社の方向を向いていることからもその証拠は充分です。


これ以外にも、少なくとも縄文初期の古来からも石巻山は聖地として崇められてきた山であることは、山頂にある盤坐を見れば間違いないことです。


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鞍馬山の奥の院「魔王堂」の下にも石灰岩質広がっていますが、石巻山山頂部は魔王堂と同じ波動を持っているのかもしれませんね。

石巻山の奥の院が鞍馬寺と同じ六芒星のマークを刻んでいるのは、こういった理由からかもしれませんね。

敏感な登山者によれば、登山途中で明らかに波動が切り替わるのを感じるといいます。

これを例えると、何かの結界から解き放たれたような感じだとか、、、


鞍馬寺には、サナートクマラが降臨したとか

シャンバラの入り口があるとか言われていますが


過去記事「鞍馬寺」参考

http://ameblo.jp/happylife3749/entry-12178712434.html


サナートクマラと同じ神様(エネルギー体)が

奈良の大神神社のご神体である三輪山にいると教えてもらっていたので、

この記事読んで裏付けられました。

同じ神様がいるのだから、同じエネルギーになりますよね。

鞍馬山(鞍馬寺)=三輪山(大神神社)=石巻山(石巻神社)



こちらの記事からも抜粋

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-1741.html


石巻山には、夏至の遥拝所である八名東頭神社と、冬至の遥拝所である石巻神社(下社)、春分秋分の遥拝所の箆矢神社社がありますが、石巻山を中心にこのような三重円構造を為しているのです。

この三つの輪が「三輪」の名の発祥かもしれません。

近くには三輪川もありますし、大池を挟んで遥か彼方に石巻山を望む地は三ノ輪町と呼ばれ、ここにも石巻神社があります。


この石巻山一帯を治めたのが三輪氏であり、石巻山はかつては「神山」と書き「みわやま」と呼ばれたのです。

奈良県桜井市の三輪山の麓にある大神神社は「おおみわじんじゃ」と読みますが、ここに深い繋がりを感じさせ、石巻山が三輪山の元宮と云われるのは、こういう証拠からも云えるのです。


また、天武天皇が青年期を過ごした壬生の地である東国(東三河の石巻山麓)を治めていた大物主系物部系の三輪氏族の三輪高市麻呂(大神高市麿)が、蘇我の後を継いで大神神社神官になったのだという。

石巻山麓の「神」(みわ)から政権を奪った天武天皇に呼ばれ、奈良に移動し「大神」(おおみわ)と称したのではないでしょうか。


*****

三輪山は、御嶽を行う地神を祭る場所で、三王朝時代に出雲・大倭・小治王朝が各1箇所ずつの場所で男子禁制で行いました。

入鹿暗殺後、天智天皇(倭智)に対する民衆や豪族の反抗を抑える為に、蘇我入鹿(鞍作毛人)の息子の太田田禰子(鞍作田根子)を王邇波神社(後の大神神社。王邇波=鬼は・・外)神官に迎えさせ反抗を鎮めた。

天武天皇の支配が始まると、壬申の乱で功績のある大物主系物部氏族三輪氏系の大神高市麻呂(柿本人麻呂モデル)に移行し「大神神社」に社名変更。

*****


記紀では三輪氏の祖は太田田根子となっていますが、完全にスリ替が行なわれていますね(爆)。

鞍作毛人(=蘇我入鹿)の次男が太田田禰子であり、その子が賀茂氏の祖・神(カムイ)虫麻呂【役小角モデル】です。

ここに初期大王族の分家・尾張氏に繋がる物部氏系の三輪氏が入リ込む余地はありません。

そうまでして蘇我の痕跡を消したかったのでしょう。


「大物主」とはスクナビコナ(少彦名)のことであり、これは初期大王家に繋がる扶余王族八名のことであるという。

ちなみに「大国主」とはオホナムチ(大己貴神)のことであり、出雲王朝を興した先住民族の蝦夷(アイヌ=エブス人)のことである。


大神高市麻呂は、別名、三輪高市麻呂ともいい、壬申の乱では天武方につき南大和での「箸陵の戦い」で大いに手柄を立てたといいます。

持統天皇が伊勢へ行幸時には、農繁期の妨げになることを説いて行幸の中止を諫言しているが、女帝に聞き入れられず、再度諫言して中納言の重職を辞した。

その後10年間は消息不明であるが、のちに長門守になり、慶雲3年(706)左京大夫従四位上にて亡くなったというが、石神の海での水刑死であったともいう。

壬申の年の功により従三位を追贈された。


一方、柿本人麻呂は『万葉集』第一の歌人と呼ばれ、万葉集にのみ名が見られる人物で持統天皇の即位から崩御の頃まで活躍した宮廷歌人であったとされていますが、実は宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局、人物不明なのだという。

持統633日に伊勢行幸を諌め、中納言の位を辞した三輪高市麻呂の行動と柿本人麻呂がこの年以後、天皇の行幸に同行していない時期が一致する根拠から、同一人物説があります。

また、「いろは歌」の「咎無くて死す」とは、藤原不比等に邪視され水刑死した柿本人麻呂=三輪高市麻呂のことが暗号として隠されているともいう。


石巻周辺は日本一の柿の生産地ですが、この地出身の三輪高市麻呂が柿本人麻呂という「柿」の名が付く仮の名で万葉集に載せられたことは、時空を超えたシンクロさを感じます。


石上神宮から大神神社まで「山辺の道」という

日本最古と言われている古道があるのですが、

そこを歩いた方が「柿畑があった」とコメントしてくれて、

石巻山と三輪山がそこでもシンクロしました!


また、三輪氏は大物主系物部系と言うことで、

物部氏はイスラエル10支族のガド族の一派ですから、

だから大神神社に五七桐紋があったんですね。


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そして、鞍馬寺 境内にある 由岐神社にも五七桐紋があるんですよね〜。
鞍馬寺と大神神社も繋がりました。

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